宮澤賢治とでくのぼうの生き方

話・桑原啓善 でくのぼう出版 1995年刊
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★ 
 この本は桑原啓善さんが昭和62年(1987年)に3回にわたって講演された内容をまとめたものです。全文が話し言葉になっていて、大変理解しやすいと思います。桑原さんはこの本の中で、宮澤賢治の生き方をスピリチュアルの視点からやさしく解説してくれていますが、それは第1話に「宮澤賢治と本当の幸福」としてまとめられてます。第2話は「霊を見ない者は幸福にならない」、第3話が「人間とその霊的真理」となっています。ここに拾ったのは第3話のほぼ全文です。大変な長文になりますので、話し言葉独特の言い回しを、私の方で少し整理させていただきました。
  桑原さんの本は私の家の本棚に10冊以上並んでいます。当サイトにも何冊かアップしていますので、その他の本のダイジェストにもどうぞお目通しください。氏は、今日のスピリチュアリズム研究の第一人者と言える人ですが、その人物の確かさと著書の信頼性の面で、私が太鼓判を押せると思っているお一人です。(2013年7月に他界されました)
 
スピリチュアリズムと、古来の聖者の教えと真理はひとつ

  それで今日は、近代心霊研究の結果である「スピリチュアリズム(神霊主義)」の原理についてポイントだけお話したいと思います。と申しましても私の申しますことは釈迦とかキリストとか、そういう立派な方がおっしゃっていたことと本質的に全く同じことです。真理というものは常に一つでございますからね。
  それなら、お釈迦さんの教え、キリストの教えを聞いたらいいじゃないか、と言われますけど、そこがちょっと困るんです。というのは長い間に、そのせっかくの教えが歪められてしまったり、いろいろ迷信的なものがくっついてしまったりしておりましてね。それでみんな引っかかってしまうんです。
  そこで私は、霊というものがあるんだよ、霊というのは我々の日常の生活にこんなに関係しているんですよ、という面からお話したいと思います。

 なぜ古来の宗教に狂いが生じたか  [TOP]

  昔の宗教は真理を持っているんですけどなぜそういう横道にそれたり、回りくどくなったり、迷信がくっついたりしたかというとね、霊の働きっていうことから、お釈迦さんもキリストさんも、説明をほとんどされなかったんですね。ただ人生をこういうふうに生きなさいよというふうにおっしゃっただけなんですね。実は霊というものがあって、人間の行動や人間の考えることや、すべての面に霊的なものがかかわっているんですよ、という内面の働きについてお話にならなかったんですよ。そこでね横道に曲がったり迷信がくっついたり、難しくなっちゃったんです。
  なぜそういう霊的なことをお話にならなかったのかと申しますとね、当時の人には、霊の働きとかを話しても分かってもらえなかったんです。学問だとか科学が発達しておりませんのでね。いわゆる学術的な知識にもとづいて合理的にものを考える習慣がまだございませんのでわからなかったのです。そこでお釈迦さんも、キリストさんも、これを信じなさいよ、人間こういうふうに生きるべきなんだよ、こういう心がけをしなさいよ、というふうにお説きになっておりますね。
  しかし、今や科学が発達しまして、人智が進歩しましたので、お釈迦さんやキリストが説かれたことの背景には、実はこういう霊の働きがあるんだということがようやく説けるようになったんですね。そこで今スピリチュアリズムと申しますものが出てきまして、お釈迦さんとかキリストの教え、いろんな優れた宗教的な教え、精神的な教えの内面機構を、私たちに説明できるようになったんですね。
  そういう意味で、今日はその霊的な面からお話を致しますから、そのようにお聞き願いたいと思います。

 先ず「人間とは何か」を知れ  [TOP]

  まず最初に、人間とは何かについてお話します。これがわからないと、正しい人生は送れないんです。もし自分を動物だと思っていたら動物のような生活になってしまいますね。人間の生活でなくなっちゃいますね。そうなりますと人間としては幸せには絶対なれません。ですから正しい人間像、人間観を知らないといけないわけです。そこでまず「人間とは何か」ということについてお話し申し上げます。
  何だ、そんなのはわかってる、人間とは精巧な肉体でございましょうと、普通の常識では申します。また科学では人間は動物のことであると申しております。つまり人間とは動物、そして物質です。もちろん精神というものはあるけど、精神は、肉体である脳みその働きの結果出てきた働きなんだから、元は肉体、物質です。ただ精巧な動物肉体機関の働きにすぎない。要するに人間とは物質なんだ。――これを物質人間観と申します。
  これが現在の科学の考え方、また私たちの常識です。「そうなんだ、人間とは肉体なんだ。体が人間なんだ。死んだらそれでおしまいなんだ。消えて無くなっちゃうんだ」――こういうふうに言うのが普通の常識でございますね。

 人は死んでも死なない  [TOP]

  ところが、心霊研究をいたしておりますと、それが間違いなんです。人間というものは霊なんです。スピリットなんです。なぜそういうことが言えるかというと、80年の生涯を終わりますと、お葬式を致しまして火葬場にいって焼却されて灰になってしまいます。すると人間は消えたっていうことですね。ところが心霊研究によりますと、とんでもない。人間はピンピン生きているんです。霊として生きているんです。
  また「霊て幽霊じゃないの。目に見えないフワフワッとした煙みたいなものじゃないのか」と言う人がいますが、とんでもない。あの世というものは厳然とございまして、そこに行って生きているんですよ。どんな生き方をしているかというと、ちゃんと体はございます。肉体じゃございませんよ。肉体とウリニつの形をした幽体です。これは肉体と同じように形がちゃんとあって、手もあれば体もあって目もあって口もあって、しゃべることもできて、髪の毛もはえていて、ここで見た皆さんとすっかり同じ姿で、あの世に行って生活しているんです。
 ただ、ものを食べたりなんかは致しません。これはもはや物質の肉体ではございませんのでね。しかし生き生きとしてそこで趣味、研究、いろんな活動、生産活動もやるんです。そして色々な階層があの世にはございます。魂が奇麗になればなるほど良い世界へどんどんどんどん進歩向上して、神の世界である神界にまであの世がございまして、我々はみんな死にますとあの世に行きまして霊として生きて最後は神々の世界に入っていくんです。
  こういうことが心霊研究の結果わかってきました。つまり「我々は80年で灰になって死ぬんじゃない。永遠に霊として残るんだ。生き生きとして生きているんだ。我々は肉眼で見えないものだから知らなかっただけなんだ」ということなんですね。余りこれを詳しく話しますと、後が話せませんのでこれくらいにして、もし霊の存在について本当のことをもっと知りたいと思われましたら次の本をお読み下さい。浅野和三郎著『神霊主義』(でくのぼう出版)。これは心霊研究の成果を、そのエキスを、最も分かりやすく正確に解説した名著です。この本をお勧めします。

 「人は神」である  [TOP]

  まあこういうわけで、人間とは霊です。言い換えると、人間というものは、肉体というのは、80年間の借り物なんです。そして人間の本体、人間そのものというのは霊なんです。永遠不滅なんです。永遠不滅ということは何かというと、永遠不滅なるものはこの世の中に一つだけございます。神様でございます。全知全能にして不滅なるものは神様でございます。それと同じように永遠不滅なるものが人間の霊なんです。我々の本体なんです。ということは、霊というものは神の分身だと、神から分かれたものだと、神の部分だと、神の火花だということなんです。こういうことが心霊研究でわかっています。
  要するに、人間というものは肉体じゃなくて霊なんだ、霊は永遠不滅であって、神様から分かれたものだ、神様の部分なんだ。言い換えますと、皆さんは霊であって皆さんは神様なんです。80年で焼き捨てられてなくなるような、吹けば飛ぶようなものじゃなくて、厳然たる神の分け御霊なんです。光り輝く全知全能と同じ性質をもっているものが我々なんだ、ということが分かってきます。

 人間は霊と肉体の二面性  [TOP]

  さて、神の子供にしては、光ってもいないし、悪い事も大分するし、神の子っていうのは嘘じゃあないかと、誰しも思います。それもその筈です。この地上に生きている私たち人間は、神の子供である霊魂プラス肉体というわけです。肉体が霊にプラスされて一緒になっているわけですね。そして、肉体というのはご承知のとおり欲望を持っております。
  生きるためには物を食べなくちゃいけない、物を使わなくちゃいけない。だから物欲というものがございます。食欲、物欲がございます。それから子供を作っていくために性欲もございます。この性欲と食欲という本能は動物も持っております。いわゆる動物的な欲望を持ったのが肉体なんです。その肉体と、神の分け御霊である霊とが一緒になったものが人間なんです。
  だから現実の人間は、肉体の動物的な面が表に出てしまいますと、動物的なものになる面があります。また時々素晴らしい発明をしたり、良心のひらめきがあったり、英知がひらめいたりして神の片鱗もあるということですね。こういうわけで現実の生きている人間というのは、神の子と動物的な肉体との二面性、つまり神の性質(神性)と動物性の二面の姿を持ったものなんです。

 媒体の働き  [TOP]

  なぜそうなるかというと、さっき申しましたように肉体は本能を持っていますね。食欲だとか性欲を持っていますね。それから、その下の幽体は感情の媒体です。感情といいましても悪い意味での感情です。怒ったり、恨んだり、憎んだり、ひがんだり、悲しんだりする、そういう悪い感情の媒体が幽体なんです。
  ですから、我々はいろんな欲望を持つだけじゃあなくて、恨んだり、怒ったり、憎んだりする。それは幽体があるからなんですね。次に、霊体というものは理性の媒体です。道理をわきまえ筋道を理解する心、良心的に反省する心、それの媒体が霊体なんです。これは良いものなんですね。それから、本体は、英知だとか愛だとかの媒体なんです。こういうものをいっぱい身につけております。

 媒体は心の波動の通信機  [TOP]

  さて、それにしても悪い人が多いですよね。自分の生活をふり返ってみましても、良い事を考えている時間は少ないかもわかりませんね。良心的なこと、犠牲的な愛の行ないなんていうのは滅多になくって、たいてい「あれが欲しい、これが食べたい」と思ったり、「あの人はどうもいやな人だ、この人こんなことしていやだな」と思ったり、「今度あの人に悪口でも言ってやろう」と思ったり、暇があると集まって人の噂をしたりしておりますね。という風なことで、我々あんまり結構なことはやっていないわけなんですよ。なぜかというと、四つの媒体を持っているだけじゃなくて、もっと複雑なんです。もっと悪くなる素質があるんです。そのお話をします。
  それは何かと申しますと、実はこの媒体は全部ラジオやテレビと同じような通信機械なんです。波動を発しているんですよ。電波みたいに波動を出したり受け取ったりしているんです。心とは電波みたいな波動でしてね、それを受信したり発信したりする機械が媒体なんです。
  肉体だって波動です。肉体は物質ですから、そのもとは分子でしょう。分子のもとは原子でしょう。原子の奥には原子核があってその周りに電子がまわっているでしょう。電子は粒子であると同時に波動であるという二つの性質を持っていますでしょう。このように肉体も波動を持っているんですよ。波動なんですよ。
  それと同じように幽体も霊体も本体も波動なんです。ただし波動が違うんです。肉体は一番粗い波動です。その次の幽体の波動はもっと細かくなって、その奥の霊体はもうずっと小さい。そして一香奥の本体の波動は非常に精妙な波動なんです。奥へ行くほど精妙な波動になるんです。

 心は「波長の法」に従う  [TOP]

  さてさて、よろしいですか。私たちが欲望を持ったり、ひがんだり、怒ったりいたしますと、それは波動になって出ていく。電波になって外へ出ていくんです。悪い心を持ちますと粗い波動なんです。愛情とか犠牲的な精神とか親切心とか持ちますと、本体や霊体からの細かい良い波長になるんです。それからさっき言った、悪い欲望とか悪い心を持ちますと、幽体から粗い波長が出ちゃうんです。もう我々はしょっちゅう四方八方にそういうふうに波動を出しているんです。こういうことが分かったんですね。
  そうすると、テレビでもラジオでも何でも通信機はそうですけども、電波っていうものは波長が合いますと声を出したり、テレビなら姿が出てくるでしょう。ダイヤルを合わせますと、ラジオは声が出てきます。テレビのチャンネルを合わせますと姿まで出てきますね。我々のこの心の波長もそうなんですよ。私たちの出している波長と同じ波長のものと交流しあうんです。我々が憎む心を出しますと、やはり憎んでいるような悪い心の波長と電波が合って同調しちゃうんです。通じてしまうんです。

 人間の心は霊と通じ合う  [TOP]

  それは具体的に言うとどういうことかと申しますと、人間は死んでも霊として生きているとさっき申しましたけど、死んだ人はみんな霊としてあの世で生きているんです。そういう人の中には良い人もいれば悪い人もおります。それで、例えば我々が怒ったり憎んだり悲しんだりして悪い波長を出しますと、同じような悪い心を持った霊と波長が合っちゃうんです。そうするとその霊が私たちに感応してくるんです。
  私がある人を憎むとします。「あいつ悪いやつだなあ。私にこんな悪い事した。憎らしいなあ」と思いますと、悪い波長、憎しみの波長が出ていきますでしょう。そうするとあの世におりますやっぱりそういう低級な心を持った霊に通じてしまって、私に感応してくるんです。

 人は「霊からのささやき」を「自分の心」と思う  [TOP]

  感応してくるとはどういうことかというと、私に通じまして「そうだ、もっと憎め憎め。もっとあいつに仕返しをしてやれ」というささやきをするんです。「ささやきをするなんて、私はそんなもの聞いたことない」って言いますけど、人間というのは面白いものでしてね。自分でものを考えますでしょう。それから感情を持ちますでしょう。「嬉しいな」「悲しいな」「今日は良い気分だな」とか「今日は憂鬱な気分だな」「今日はあそこにちょっと行ってみようかしら」とか、「あの人嫌な人だ」「あれが欲しいな」とか思いますでしょう。全部それは自分の心、自分自身が持った感情だと思っているでしょう。とんでもないんです。電波を出しておりますから、その電波に合った、波長に合った霊からの通信が来ておりまして、あたかも自分の気持ち、考えのように思ってしまうんです。
  例えば今日皆さんはおいでになったでしょう。何か話を聞きに行こうかなと思われたでしょう。それは確かに自分の決断でおいでになったんですよ。ですけどその時にね、「行ってみようかな」と思った時に電波を出しておりますから、皆さんの後ろにいる霊がですね、「行ってごらんよ。さあ準備をして行きなさい。どうしても今日行きなさい」と言うと、「どうしても今日行ってみよう」っていう気持ちになっちゃうんですね。こういうふうにですね、我々の考え、我々の気持ちは全部自分の心だと思っていますけども、霊からの影響を受けまして、それが強化・増幅されているんです。
  反対に、行こうかと思ったら、行きたくなくなったりもさせます。それは行くことを妨害しようとする霊からのテレパシーです。本人はそれを自分の心のように思い、「じゃ今日は止めとこう」と思って行くのを止めます。このように霊には人の心を変えさせる働きもあるんです。このことを今の科学は知らない。多少テレパシーとか何とかということで分かってきた。
  テレパシーの実在は今科学的に証明されているんですよ。超心理学といわれるもので、科学的にテレパシーはもう証明されでいるんです。心と心は通じるということが。
  ところが、人間のいろいろなものの考え方、心の持ち方は、霊からの影響が日常たくさんあるんだということがまだ分かっていないんです。

 なぜ人間は鬼っ子になるか  [TOP]

  そこでね、人間が神の子供であるのに、なぜ似ても似つかぬ鬼っ子であるのか、悪いのか、といいいますと、私たちが少しでも憎む気持ちを持ちますと、すぐ同じような霊が感応してきまして「もっと憎め、もっと憎め、あいつに仕返しをしろ、恨みを忘れるなよ、こんなことやってあいつをやっつけろ」というようなことをささやくからです。それを私たちはいかにも自分の心だと思ってそうやっちゃうんですよ。だから我々はよけい鬼っ子になっちゃうんです。人間恐ろしいでしょう。だから悪い心は持てないっていうことなんです。
  反対に良い心を持って、「ああ、あの人、気の毒だなあ」って思いますと、その心が細かい波長になってまして、良いことの手助けしてあげたいという霊がいっぱいおりますから、すぐに感応してきまして、「あの人の手助けをしてあげよう。親切な言葉をかけてあげよう。お金がなければあげよう」っていう気持ちにさせてくれるんです。
  それで、我々はいい気持ちになって、自分の気持ちだと思って奉仕を致しますね。もちろん奉仕の源は自分の心から出たんですよ、「ああ気の毒だなあ」って心は自分から出たんですよ。それに良い霊が感応してきて、その波長を倍加させてくれるんです。そこで奉仕の行為をしちゃうんです。善きにつけ悪しきにつけそうなんです。ラジオやテレビと同じで、波長が合うと声が出て来る。ボリュームを上げると声がウワーッと大きくなる。波長が合いますと、霊がボリュームを上げてくれるんですよ。
  だから我々は善きにつけ悪しきにつけ霊の働きによって大きな変化をしていくんですね。これが人間なんです。人間はそういう恐ろしい波長的な存在なんです。そういうわけで人間は鬼っ子になってしまっているというわけですね。

 鬼っ子は不幸のコース  [TOP]

  「ああそうか、まあ少しは分かってきた。鬼っ子だっていいじゃないの。憎まれっ子世にはばかるといって、鬼っ子の方が世の中を生きていくにはたくましくって良いんだ。むしろ人を押し退けてドンドン競争で勝っていくくらいの人間でないと、人生は勝てないんだから、少々鬼っ子の方が良いんだ。うんと鬼っ子なら、政治家みたいに偉くなれるんだ」っていうふうに常識では思うんですけどね。これがいけないんですよ。
  鬼っ子になったら必ず人生不幸になるんです。間違いなく不幸になる。大きな鬼っ子になれぱなるほど、悪くなればなるほど人生は破滅するんです。それから人間が善人になればなるほど、親切で愛情に富んだ人間になればなるほど、言い換えると、自分の持っている神の性質を外に出せば出すほど、現実の生活全部恵まれる。ですから鬼っ子で良いんだとか、少々鬼っ子でも構わないと思っていることが全然間違いなんです。もし幸福になりたいと思ったら、鬼っ子であることをやめて善人になっていかなきゃあいけないんです。
  何故かっていうことを申し上げます。さっきの波長の原理なんです。鬼っ子の意地悪な、あるいは欲望に長けた気持ちを持つと致しますね。「あいつ蹴とぱして出世してやろうか」とか、「お金貯めるためにあいつを少し騙してやろう」とか、「あの人悪い人だからひとつ失脚させてやろう」とか、考えますね。それはすぐ邪悪な霊に通じてしまうんです。波長が合ってしまうんです。そうするとさっき言ったように邪悪な霊が「やれ!やれ!」って手伝ってくるんです。憎らしい相手を失脚させる手伝いをしてくれるんです。お金を集めるのを手伝ってくれることもあります。
  けれども、そういう邪悪な霊と通じますと、後は必ず悪いんです。なぜかと申しますと、邪悪な霊というのは、人が滅亡すること、人がだめになること、不幸になることを願っております。それを目的にしているんですよ。人間でもそうでしょう。悪い人っていうのは人が幸せになるとひがんじゃって、人が不幸になると腹の底で喜んでいる、ということございますね。
  それと同じで、邪悪な霊もそうなんです。人が不幸になることを非常に望んでいる。自分が不幸ですからね。地獄にあって不幸ですからね。やっぱり人を地獄に引きずり込みたい。自分よりももっと不幸にさせてやりたい。それが楽しみなんです。ですから私が悪い心を持ちますと、すぐそういう地獄の霊に通じまして、そして最終的には私自身が滅亡させられてしまうんです。

 幸・不幸の背後に、霊の働きあり  [TOP]

  例えば、よくテレビなんかでもやっておりますけど、霊媒が出てきて、「あなたが運が悪いのはこういう霊が憑いているからですよ」とか、「病気になるのはこういう霊が憑いているからですよ」「自殺したのはこういう霊にそそのかされたからですよ」とか、よく言いますでしょう。まあ当たっているか当たっていないかは別としまして、現実にこの世の中の幸福といい不幸といい、その背後にはその幸福や不幸を進めている霊があるんです。このことを今の科学は知らないんですね。人間が死んでも霊は生きているってことを知らないわけです。ましてやその霊が感応してくるっていうことを知らないんです。そしてその霊が、人間の幸福や不幸を動かす働きをするっていうことを全く知らないんです。
  病気なんていうのは7〜8割は霊の働きと関係があるんです。調べてみるとすぐ分かります。例えば、胃癌になったのは胃癌にさせようとする霊、体を悪くさせようという恨みを持った霊が憑いている場合がしばしばあります。あるいは胃癌で死んだおじいさんの霊が本人を頼るつもりで憑いて、感応している場合がございます。
  癌に限りません。ノイローゼになった場合、まあ本人にいろんな心配事があってなったかも分かりませんけども、その心配事で憂鬱な気持ちになりますと、やっぱり悪い霊に、低級な霊に感応され、憑依されてしまいまして、その霊の災いでもって一層憂鬱にさせられてしまうんです。気がクシャクシャとさせられる。
  そして、いろんな身体の故障まで起こってきて精神的に破滅させられてしまいます。精神病に限らず病気の大部分は霊的なものの弊害で起こってくることが非常に多いんです。だからその霊を除きますとケロリと治っちゃうんですね。
  病気だけに限りません。事業の失敗や成功にも、背後に霊の働きがあるんです。例えば事業で人を騙して金儲けをしようとか、人を蹴落として金儲けしようとか、やればやれますよ。一時的にお金をつかみますよ。人を騙して金儲けをしようとすると、その時悪い霊が来て手伝ってくれるんです。「やれやれ! あいつ騙せ。やっちゃえ。金儲けをしろ!」と。それで「儲けた!」と思っていい気持ちになっていると、今度その霊はその人を滅ぼします。「いつまでもいい思いさせねえぞ」ってね。そして不渡り手形をつかまさせるような会社と取り引きをさせられてしまうんです。
  まあ色々な方法でもって邪悪霊は邪魔を致しましてね。うまいことを言って人から騙されるように仕向けたりしまして没落させてしまうんです。だから事業の成功失敗にもみんな背後に何らかの霊の働きがございます。
  そのほか家庭内のいざこざ、不和、夫婦仲が悪くて離婚したとか、子供がグレて駄目になったとか、全部と言ってもよいくらい、おおむねこういう霊が背後にあって災いをしているんです。

 自分の心がけが、自分の人生をつくる  [TOP]

  こういうわけで、結論から申しますと、私たちが善人になって良い心がけを持つと、良い霊と波長が合って、人生万事が幸福になります。健康にもなるし、家庭もうまくいくし、事業もうまくいきます。逆に悪い心を持って悪い生活をしますと、邪悪な霊と感応同交して健康も悪くなるし、事業も悪くなるし、家庭内のもめ事もできるし、人との関係も悪くなります。これは非常に単純な原理だけ申したんですよ。
  そうしますと、自分の人生が幸福になるか不幸になるかの源は、自分の心がけにあるんだってことになっちゃうんですね。
  自分が良い心がけを持てば良い霊と感応して現実生活も幸福になる。悪い心がけを持つと悪い霊と感応して結果的に人生全般悪くなるんです。簡単に申しますとそういうことなんです。そのことを覚えて下さいね。幸福とか不幸の現象の裏には霊の働きがあるっていうこと。そういう霊を働かせたのは、元はと言えば自分に原因があるんだ、自分の責任なんだということです。良い心を持つと良い霊が働いて幸福になる、悪い心を持つと悪い霊が働いて、現実生活全般が悪くなる、という原理です。

 病気になる人は、心がけが悪い人か?  [TOP]

  そうしますと、こういう人がいます。「ハハア、あの人病気しているな。あれは心がけが悪いんだ。よくない人なんだな」「あの人の家庭でイザコザがあるぞ。相当悪人なんだな。腹の中が悪いんだな」「あの人は何事も無いから良い人かな」――短絡的にすぐそう考えてしまう人です。
  それは必ずしも間違いじゃないんですよ。ある人が病気をしている、事業がうまくいかない、家庭がうまくいかないのは、やっぱりその人に原因があるのですよ。心に原因があるのですよ。その点では間違いじゃないんです。しかし、そこで心霊の勉強を止めちゃうと、なにもかもそこでおしまいになっちゃうんです。それでは中途半端なものの考え方なんです。
  確かにその原理は間違いないんです。その人が悪い心を持って悪い霊と感応同交しまして、病気になったり不幸になったりするのは、もちろんその人の心がけに何か問題があるのですね。だけれども、その人はもともと悪人でも何でもないんですよ。その人の本体は霊でしょう。霊は神の火花でしょう。神の子供でしょう。完全無欠で、もう珠のように光り輝いた善と愛の存在なんです。その人が何で悪い心がけを持ったかといいますと、神様がその霊を、神の火花を、四つの衣で包んじゃったからなんです。本体で包み、その上を霊体で包み、そのまた上を幽体で包み、最後に厚い厚い肉体で包んで隠しちゃったからです。神の子を隠しちゃったからです。それで鬼っ子になっちゃって、悪い心を持つようになったんです。
  だから、こう言いますと責任はむしろ神様にありますね。神様が余計なことせずに、私たちを「神の子」そのままで置いていてくれたら‥‥私たちは悪い心を持つこともないし、不幸になることもなかったんです。本当にそうなんです。神様がわざわざ余計なことをして四重の媒体で隠したから、悪い心を持って、悪い霊と感応して、結果的に悪くなっちゃった。神様の責任だ。私はちっとも悪くない。あれは神様が悪いんだって‥‥。本当にそうなんです。
  ですけども、なぜ神様はそういうことをなさったと思われますか? なぜわざわざ「神の子」である我々を、四つの衣で隠しちゃったのでしょうか。鬼っ子にさせちゃったんでしょうか。実は、それこそ神の愛なんです。

 キリストも赤ん坊では、何もできない  [TOP]

  皆さんはあのラファエロという人が描いた聖母子像の絵を御覧になったことあるでしょうか。キリストが赤ん坊の時に聖母マリアに抱っこされている絵がございますね。優れた名画でございます。「神の子」っていうのはあのマリアに抱っこされているイエスの赤ん坊、これが「神の子」ですね。頭の上に光の輪なんかありまして、まさに「神の子」ですね。
 ですけども、抱っこされているイエスは赤ん坊でございますから説教することはできません。人を救うことは何も出来ない。立って歩くことさえできません。おっぱい飲ませてもらって、おむつを取り替えてもらわなきゃあいけない。面倒を全部みてもらわなきゃいけない。光り輝く神の子でありながら、何も出来ない。自分が神の子であるという意識も自覚も持っていない。何も良い事はできないんです。
  確かに悪い事は致しません。神の子で光り輝いておりますけれども現実には何も出来ない。自分が神の子だということも知らない。自分が神の子だっていうことを知らないから、別に嬉しくもない。歓喜に燃えてるわけでもない。自分の中に持っている神の能力を発揮することもできない、というわけですね。

 大人の神になるために、人生はある  [TOP]

  ところが33年、いや30年ですか、経ちますと、イエスは大人になります。大人になりますとどうなりますか? まったく神と同じような、神に近いような性質を表しまして、愛に燃えた大人になり、人に人間の道を説き、天に昇っていく進歩向上する道を説いてくれます。法を説き、人を助け、病人を癒します。まさに神と同じような大人になってしまいましたですね。
  あれはなぜかといいますと、30年の地上生活をしたからです、言い換えますと、神の子イエスもやっぱり肉体の衣を着まして、30年間地上でいろんな苦労をして、勉強をして、修業をして、悩みまわり、苦しみまわり、人との接触もあって、隠れていた神の子の能力が全部外に発揮されまして、大人のイエス・キリスト、神の如きイエス・キリストになったんです。私たちも全く同じです。私たちが神になるためには、地上生活で修業をして、苦しみにあったりいろんなことをして初めて自分の持っている神の性質を外に発現することができるんです。
  イエスは30年で発現しました。私たちはもう少し時間がかかるかもわかりませんけども、原理的には全く同じことなんです。要するに、なぜ神様がせっかく神の子である私達を四重の媒体でくるんで隠してしまったのかというと、私たちが地上生活をすることによって、いろんな苦労をし、経験をすることによって、自分が神の子だということを知り、自分が持っている神と同じ能力を発揮して、いろんな活躍をし、それから自分が神の子だという喜び、無上の歓喜を味わう。そして身も心も、現実の生活も、神と同じような至福の状態になる。
  神がわざわざ私達を四重の媒体でくるまれたのは、このようにして私達を神にするためです。神の子である我々を神と同じように光り輝く英知、愛、の幸福な存在にするためです。私達を幸福にするためなんです。私達を神にまで進歩させるためなんです。まあ余計なことをしてくれたと思う方もいるかもわかりませんけども、この神のような存在になった時の歓喜、神に近づいた時の歓喜、宇宙をも動かすことのできる能力を発揮することになった時の喜び、生きがい‥‥。
  そんなことができるんですよ、人間はやがて。神は神の子である私達を、神と同じような大人の神にするために、私達を地上に置かれ、四重の媒体でくるまれたんです。そして私達はいろんな苦しみを嘗め、悪い事をして、ああしまったと反省をしたり、後悔をしたり、努力をしたりすることによって、正しい道を知って、そして進歩をして、だんだんと神に近づき、一段一段と更に幸福なものになっていく、ということになるんですね。

 艱難は人が神になるための神の愛  [TOP]

  そこでもういっぺん申し上げます。私達の現実の生活が、病気をしたり、事業で失敗したり、家庭が不和であったり、不幸であるのは、その裏に霊が働いているからです。悪い霊が働いているからです。でも、それを働かせたのは私達の悪い心があったからで、当たり前なんですけども、これは本当に悪い事と言い切ってしまってはいけないんです。もともと私達は神の子であって、この神の子が本当の神になるためには、そのような苦しみや、いろんな体験をしなきやいけない。体験することによって初めて神になっていくわけです。ですからいろんな苦しみ、災いは、実は私達の魂の進歩向上のため、私達の幸福のためにあるんです。
  ですから人を見て「ああ、あの人は病気している。心がけが悪いんだ」と思うことは、単なる表面的な見方にすぎないんです。本当はそうじゃなくって、その人は神になるために勉強してるんです。その人は更に神のように幸福なものになるためにそうなっているんです。今病気をしたり、事業で失敗しているということは、もっと深い霊的な意味から言うと、本当は幸福なことなんです。その人に神に近づく資格ができたから、そうなっていることなんです。それは神の愛の現れなんです。そういうことです。まあそういうふうにお考え願いたいと思います。

 「霊主肉従」の真理  [TOP]

  人間とは神の子、スピリットなんです。しかし四つの媒体を纏ったために神の子が隠されて、神の性質はどっかにいっちゃって、むしろ鬼っ子みたいになっちゃったんです。鬼っ子になっちゃったから悪い霊と感応して不幸がいっぱい出てきたんです。しかしそのような体験をするってことは、神の子である私達、赤ん坊である私達が、自分が神であることを知って、そして進歩向上して、そして神々になるためです。幸福になるためです。これが人生だということでございますね。
  したがって、人生の目的は何かと申しますと「魂の進歩向上」です。良い心、美しい心、愛の心を持っていくことです。魂をみがいていくことです。お金をためることだとか、人と競争することだとか、大きな家を建てることだとかではございません。魂をみがくことです。進歩向上、そうすることが良い霊と感応して、結果的に生活も困らず、また健康も得られ、家庭もうまくいく原理なんです。
  要するに、魂をみがけば結果的に、現実生活はすべて調和を持った良いものになっていくんです。お金を十億円儲けようとか、他人を蹴っ飛ばして出世しようとか、好きな人と一緒になるために他の人を欺いてやろうというような悪い心を持ちますと、目当てのその物、例えば十億円は一時的に得られたとしても(得られないことが多いんですが、かりに得られたとしても)、そのために悪い心を持った結果、悪い霊と感応して、必ず悪くなってしまうんです。破滅してしまうんです。
  ですから、私たちが幸福になりたければ、何か物質を求めることじゃなくって、自分の心をみがく、魂をみがく、それが結果的に物質生活も現実生活も良くなるんです。これは原理であり、全く狂いのない真理でございます。これを「霊主肉従」と言うんです。
  霊魂の方が主である。魂が主で肉体、物質の方は家来です。これを「霊主肉従の真理」と申します。これは霊的真理なんですね。で、人間は皆これを間違えまして、幸福になるために人を騙してお金を取ろうとか、悪い事をして幸福になろうとしますね。それは全くの間違い、不幸の原理なんです。
  人に奉仕する、愛をする、善行を行なう、魂の美しい行為をしていく、そのことが結果的に百パーセント幸福になっていく原理なんです。霊の存在を知らないために、今の常識や科学が、幸福になる原理を間違えちゃったんですね。幸福になる原理は、魂を磨いて愛の心を持つこと。そうすると物質の方が後からついてくるということがわかります。以上が「霊主肉従の真理」ということです。心霊の大事な幸福の原理でございます。

 何事も人のせいにするな  [TOP]

  では、「じゃあ魂を磨いて、善人になれば良いのだな。愛情の深い人になれば良いのだな。ああ分かった。じゃあ、そうなりましょう」と思っても簡単にはなれませんね。なろうと思ったって、誰かにちょっと文句言われたりするとすぐ鬼っ子になって、だめになっちゃいます。この原理を分かっても、この「魂を磨く」「善人になる」っていうのは難しいんですよ。
  そこで次の問題です。どうしたら人間は魂の進歩ができるか、善人になれるか、良い人になれるか、どうしたら人間進歩ができるかということを、この研究の上から申し上げます。
  どうしたら人間進歩ができるか、魂の浄化ができるかということを、結論から申し上げましょうかね。まず根本的な条件がございます。「何事も人のせいにしない」っていうことです。これが生活の基本にならないと、絶対にと言っていいくらい、幸福になれないんです。魂の進歩ができないんです。これは原理なんです。
  これは「自己責任」といって、何事も自分の責任、どんなに自分が不遇であっても、それを、「あの人がしたからこうなったんだ」「親が悪いからこうなったんだ」「先生がしたから」「友達がこういうことをしたから」「あの人がこうやってぶつかったからこうなったんだ」「生まれが悪いからこうなんだ」というふうに、人や環境のせいにするのをやめるということです。全部、自分のせいにする。そういう生活態度を取ることが基本なんです。これができないと進歩できないんですね。非常に大事なんです。
  なぜそうかというと、原理は簡単なんです。さっきすでに半分ぐらいは申しあげました。なぜ病気したか、なぜ事業で失敗したか、なぜ家庭が不和か、原理は自分の心掛けが悪かったからでしょう。心がけが悪いと健康も事業も家庭問題も子供のことも、全部悪くなっちゃうんです。ですから不幸になったのは自分の心がけが悪い、自分の責任だってことになるんです。非常に簡単ですね。何かあんまり単純すぎて騙されているんじゃないかと思うでしょうけど、これは原理でございます。

 人の媒体は記録コンピュータ  [TOP]

  だけど、もうちょっと人間は複雑なんです。もうちょっといろんなニュアンスの違いがあり、複雑なんです。それを申し上げます。実は、人間の媒体、幽体とか霊体とか本体は、波長を出してる通信機だと申したでしょう。だけど単なる通信機じゃなくて、コンピュータなんですよ。人間の媒体はコンピュータです。
  肉体だってコンピュータでしょう。脳髄でいろいろな記憶を致します。何百憶の細胞がございまして記憶を致します。コンピュータですね。しかし、脳髄はあまり完全なコンピュータじゃないですね。ちょいちょい物忘れしますからね。
  しかし、幽体だとか霊体だとかは、完全無欠なんです。精巧無比なコンピュータなんです。どういうことかと言いいますと、私達が生まれてからこの世でしたこと全部、幽体や霊体に記憶されてるんです。行なった行為が全部記録されてるんです。それから言った言葉が全部記録されてるんです。それだけじゃなくてね、思った心、気持ちも、全部記録されてるんです。口では「可愛いお嬢ちゃんですね」なんて言って、腹の中で「なんだこのブスが」なんて思ってると、その「ブスが」まで全部記録されるんです。このように、行なったこと、言ったこと、思ったこと、全部記録されるんです。本当なんです。
  一度だけそのことが分かるチャンスがございます。それは死んでからですけどね。死んであの世に行きますと、裁判がございまして、一生涯でやったことが全部テレビドラマのように目の前に再現されてきます。コンピュータだから、我々の幽体も霊体もこの媒体というものは、ごまかせないんです。
  しかも、この世のことだけじゃあないんですよ。前世(前の世の中ね。人間は何回も生まれ変わるんです。地上に何回も何回も生まれ変わってきます)――その前世でしたことも全部記録されているんです。そのまた前前世でしたことも、前前前世でしたことも全部記録されているんです。こういうしかけなんですよ。
  ですから、「悪い心を持ったら悪い霊がついて不幸になる。良い心を持ったら良い霊がついて幸福になる」とは申しましたけども、なぜ私達が良い心を持ったり、悪い心を持ったりするかというと、媒体に記録されているコンピュータのせいなんです。例えば、私が今までに50回正直な行為をし、100回悪い行為をしたとします。そうすると私の心は100対50の割合で悪いんですよ。悪い性格がコンピュータに記録されているんです。だから、今の割合で悪い心の方がよけい出てくるんですよ。人を見ると「あいつ憎らしいなあ」って、ついこう思いがちになっちゃうんです。

 現在は過去の自分の総決算書  [TOP]

  だから、「今日は心霊でこんな話を聞いた。悪い心を持つと不幸になると聞いたぞ。じゃあ良い心を持とうかな。今日から善人になった」と思っても三日坊主で終わるのは、そのことです。過去に悪い事をいっぱいして、コンピュータにいっぱい記録されていると、記録された悪いものが出てきますから、やっぱり悪くなっちゃうんです。
  というわけですから、「悪い心を持つと不幸になる。良い心を持つと幸福になる」とはいうものの、心が原理だとはいうものの、その心の奥にはあなたの過去の、前世のすべての行為、すべての言葉、すべての思いが込められているんですよ。私達が生きて行なったことは何一つごまかしはできません。消えることはございません。その総決算が現在の私達の心を、性格を、人格を造っております。
  そういう意味で、現在の私達の幸福だとか不幸だとかいうものは、過去の前世の行為も全部含めた上で、私達が作ったものなんです。

 カルマを消すために再生する  [TOP]

  ところが、もうちょっと複雑なんですよ。「業(ごう)」って言葉を聞いたことがありますか「あの人、業が深いんだな。だからあんなに不幸なんだよ」って言うでしょう。これは「カルマ」とも言いますね。例えば過去において、人を騙したり、人を殺したり、傷つけたりしますと、これがカルマ、業になりまして、次の世で出てくるんです。記憶コンピユータに完全に記録されてますから、ごまかすことできません。必ず出てくるんです。これが業、カルマなんです。次の世の運命を作ってるんですよ。
  簡単に申しますと、私達はこの世に再生して生まれてきます時に、例えば、私が過去に百ぐらい悪い事をしたとします。人を傷つけたり、殺したり、騙したり、裏切ったり、かっぱらいもしたかも知れません。それが百あるとしますね。死んであの世にいきますと、それを見せられて反省致します。あの世ではすべてがテレビドラマのように見せられますから、「ああやっぱり悪い事はできない。今度生まれた時は少しはまともな人間になろう。私はあの時、人を騙したりしたから、今度は騙さない人間になりたいな」と、思うとします。そして、そのために生まれてこようと思うんです。こうして、再生する時は本人が希望して生まれてくるんですよ。
  何のために再生してくるかというと、この地上という厳しい世界で自分の悪い心をたたき直すためにです。物質世界は、飯を食べなければ生きていけないし、人と戦わなければ生きていけないようにできているわけですね。だから自分の魂を鍛えるのに一番都合のいい所なんです。試練の世界だからです。
  そこで自分の心をたたき直すために、正直者になるために生まれてこようと、こう思うんですね。自分でそう決意をします。そして、神界の方でも「まあ良かろう」ってことになって認めてもらえるんです。それで生まれてくるんですね。
  その時にですね、私に百の業、悪い事があるとします。それを全部持って来たら私は潰れてしまいますね。それこそ私は本当の鬼っ子みたいになって、その罪の重さで押しつぶされてしまいます。これでは身がもたない。それでその中から「前世では人を騙したから、今度は誠実な人間として生きよう」という、百業の悪の中の一つを鍛えようと思って生まれてくるんですよ。だいたい一つの業だけを持ってくるんです。

 環境と運命は自分が選んだ  [TOP]

  「では、どこの家に生まれたらこの悪い心が直せるかなあ。正直者になれるかなあ。今度はやっぱり少し貧乏な家に生まれて、生活苦と闘いながら正直者で生き通して、貧乏でも物を盗らないように、ひもじくってもかっぱらいをしないように、そして刻苦勉励して、成功する人間になりたいなあ」と思ったとします。その時に、「日本はちょっと恵まれているからバングラデシュか、フィリピンの貧しい国に生まれてみよう」とか、いろいろ選択するんです。そのフィリピンの中でも「あの家庭が良いだろう」「あの親が良いだろう」という選択をするんです。そうやって、自分の心を鍛え直すのに一番適した国、一番適した親、家庭を求めて生まれていく。これが再生なんです。その時に、運命も大体決めちゃうんです。
  こういうふうに自分で大体の自分の運命のコースと環境を選択するんです。それが神界で審査されまして、「君にはこれが適当だろう」と認められれば許可が下ります。そして生まれてくるんです。このように、私たちは生まれてくる環境と、運命の大体の所を、自らの自由意志で選択をして生まれて来ているんです
  ただし地上に生まれて来るとケロリとそのことを忘れる仕掛けになっています。肉体の衣を着ますと忘れる仕掛けになっているんです。ですから、人間はよく「貧乏な家に生まれた」「へんぴな所に生まれた」「いやな親の所に生まれちゃった」とか言うけれども、それは全部自分が選択したものなんです。自分のために、自分の魂の進歩のために選択したものなんです。「こんな運命になって」と愚痴を言うけどれも、その運命も大体の所は自分が選択して決めたんです。また、細かい運命は自分が生まれてからその時々の心がけによって、良くもなり悪くもなってきているんです。こうやって見てきますと、人間の運命だとか環境っていうものは、全部自分が作ったものなんです。
  今日は皆さんはこうやってお集まりになってるけど、こういうご縁も、元は自分が作り出しているんです。もちろん、ここへ行きたいなと思わせる霊が働いたから、今日はおいでになったかもしれませんけど、それだって自分の心がその霊を呼んだからそうなっているんです。ということは、人間は自分のコースは自分が選んでいるんです。言い換えますと、霊的な話を聞くコースは、あなたがたが一生のコースの中に決めていたのかもわかりません。こういう話を聞かずに一生涯を終わる方もたくさんいるわけでしょう。あなた方がお聞きになったってことは、ある時期にこういう話を聞いてそれを自分の知識として生きていこうという運命をお決めになっていたんじゃないか、と私は思います。
  ここにおいでになれない方はいっぱいいるわけです。でも皆さんがおいでになったってことは、家庭の状況が来れる状況になってたからですね。ご主人も理解があるとか、お子さんも足手まといにならないとか、あっても何とかその時はできたとか、そういうご主人と結婚したからです。そのご主人を選んだのはあなたがたです。勿論この世の中でお見合いしたんだか恋愛したんだか知りませんけども、選ばれたんでしょうけども、結ばれる方は、生まれる前からある程度まで決まっているんです。
  縁のない方とは絶対結婚しません。前世でなんかの縁がある人、過去においても夫婦だったとか、兄弟だったとか、親子だったとか、友達だったとか、前世か前前世で何らかの縁があったんです。「袖すり合うも他生の縁」とはそういうことなんですけどもね。こうやって触れ合うのも、言葉をかけ合うのも、話し合うのも、顔を見合わすのも、前世で何かの縁があったんです。皆さんが今の旦那さんと結婚されたっていうことは、昔から縁があったんだし、生まれる前から縁があったのかもわかりません。とにかく皆さんが選んだことには間違いない。自ら選択したから今日はこうやっておいでになれるような家庭環境になっていたんですね。というわけで、ここにおいでになったっていうことは、皆さんが何らかの意味においてお決めになったことなんです。自己責任なんです。

 人の作るいろんなカルマ  [TOP]

  このカルマっていうものにはいろんなものがございましてね。この頃は不倫なんてことがはやりますね。よく新聞の投書なんか見ておりますと、「今こうやってよろめいているんですけども、主人に打ち明けたもんでしょうか」とか、いろいろありますよね。たいていの人は「いや、それは打ち明けない方が良いよ。知らない方が幸せなんだから、言っちゃいけませんよ」なんて言ってますけどね。まあそれはこの世の知恵かもわかりませんけど、死にますと全部ばれます。旦那も来てスクリーンで見ますよ。「お前、浮気をやってたじゃないか」ってね。言わずにおいたことが全部ばれます。後からだとよけい悪いんですよ。「お前よくも騙したな!」ってわけで、よけい怒られちゃいましてね。
  それだけでなくて、不倫をして隠しておくと二重の悪い事をしているんですよね。不倫という悪い事をした上に、相手にも言わずに騙しておくという、二重の悪い事をしているんです。二重の悪い事をしているから、悪い波長がいっぱいに出ているんです。良くない霊と感応しております。そうするとその人は不倫の方ではうまくいったかもわかんないけども、そのほかの方でうまくいかないとか、失敗するとか、あるいは不倫が原因となって身の破滅に陥るとかいうふうに、邪悪霊によって引き回されてしまうんです。だから不倫をしてることを言う方が良いか、言わない方が良いかというと、どっちも良くないんです。大体不倫そのものが良くないんです。
  別の話ですが、こういう人がいますね。その人は身持ちの良い貞淑な妻であるのに、旦那が女道楽でどうしようもない。しかし妻は実にけなげに夫に仕えている。旦那はひどすぎるんじゃないか。これは誰が見たって気の毒ですね。奥さん本人にしてみれば「悪い夫をつかまえた」ってことになるかもわかりませんね。しかしこれを心霊的に高い所から言いますと、やっぱりその奥さん本人が作った運なんです。選んだ運なんですよ。全部じゃありませんけど、前世か、あるいは前前世かで、その奥さんが自分の旦那を裏切った、不倫をしたっていうことがある場合に、その裏返しで出て来ることがあるんですね。
  言い換えますと、これは不倫ということがどんなにひどいことであるか、貞節であることがどんなに大事なことであるかを知るためには、自分がその立場に陥らないとわからないからです。話に聞いただけでは駄目なんです。あの世にいって反省したぐらいじゃわからないんです。そのとき、「ああ悪かったな」と思っても、現実に自分がその身に置かれないと、腹のそこからそれが悪いってことがわからないんです。
  だから、貞節な妻であっても、あの世に行ってずいぶん反省して、本当にそれを知るためにその人はその運命を選んだのかもわかりません。裏切る夫と結婚する運命を選んだのかもわかりません。全部が全部そうとは限りませんが、おそらくそうでしょう。だからカルマっていうのは恐ろしいんです。

 カルマは神になる進歩のためにある  [TOP]

  カルマっていうのは宗教では罰だというけど、罰じゃないんです。貞節という美徳を知るためには、自分が体験しないと絶対にわからないので、そういう不遇な運命を自ら選んだんであって、それはすべて魂の進歩のためなんです。その人が進歩して神になるためなんです。進歩してより一層幸福になっていくためなんです。
  こうして魂の修業をするために、人間は生まれ変わっていろいろな運命をたどっていくんです。しかしその根本にあるのは、全部原因は自分が作った、種は蒔いているんです。運命は自分が選んだということなんですね。
  ‥‥というふうに全部カルマっていうのがあるんです。それは実は自分が行なった罪をですね、どんなにそれが悪いものかを自分で自覚するため、魂の進歩のためにそういう仕掛けになっているんですね。こういうわけでございまして、自分の環境も、自分の境遇も運命も、全部自分が選んだんです。

 肉体さえも自分が作った  [TOP]

  この肉体だって自分が選んだんです。自分が作ったんですよ。「嘘を言いなさい、この体は親からもらった、親の遺伝子のせいでこうなってんでしょう。私はもっと美人になりたいし、もっとスマートになりたかった。こんなになったのは、みんな親のせいですよ」――たいていそう言いますね。医者もそういうふうに言います。
  でも、そうじゃないんです。大部分は自分が作ったものです。今の肉体は自分が選んだんです。さっき申しましたように、媒体は全部記憶コンピュータですから、次の世まで持って行かれます。肉体の原形も持って生まれてくるんです。肉体のエーテル原子の、一番過去の前世から全部、圧縮された種原子を持ってくるんです、それがもとになるんです。だから、肉体も自分が作ったんですよ。
  ただし、肉体は幽体なんかとはちょっと違うところがあるんですけどね。さっき言ったように親を選ぶでしょう。スポーツ選手で生きようと思ったら、体の丈夫な、そういうスポーツマンの親の所を選んで生まれてくるんです。女優になりたいと思ったら、美人の親の所を選択して生まれてくることがあるわけですね。ですから、親の遺伝子も大分関係があるんですよ。しかし基本は、自分の性質と合わない親の遺伝子は受け取ることはできないんです。やはり原形は自分なんです。親は選ぶけども、その親の持っている遺伝子の中で自分の持っている原形と合うものだけを受け取るんです。
  同じ両親から生まれた兄弟でも、ずいぶん違うでしょう。本質は自分にあるんです。ただし親の遺伝子もたくさん受けます。
  「ああそうか。そしたら今度は親を選んで絶世の美人になって生まれてきてやる」‥‥できますよ、そういう親を選べばね。「じゃあ私なぜそういうふうに選択して生まれてこなかったの?」。まあ次はそうなさってもいいですけど、今回はそうしなかった。なぜそうしなかったかといいますと、美人に生まれるかどうか、スマートに生まれるかどうかっていうことは、再生の時にちっとも本人の心にないんです。
  なぜ再生したいかというと、自分の魂を鍛え直したいからです。自分の悪い欠点を直したいからです。それが先に立っていますから、美人かどうかじゃないんですよ。「私はこの嘘つきの癖を直すために、むしろ不美人に生まれた方が良いんだ」とか「デブに生まれた方が良いんだ」とかね。「そしてその屈辱に耐え、そこから頑張っていくんだ」ということが先に立っちゃいますから、それに合った親を選んでいるんです。
  そういうことで肉体すらも自ら選んだもの、作ったものでございます。何事も人のせいにできません。これが進歩の原点だから、何の責任も、人にも親にも言うことできないのです。全部自分が選び、自分が作ったものです。これが人生の真実です。霊的なことが理解できますと、そのことが分かります。
  そこで、すべて何事も人のせいにしないっていうことを人生の基本にすること。これなくして魂の進歩、浄化、言い換えますと、幸福になることは不可能です。神のように進歩することは不可能なんです。これは人生の真理なんですよ。こういうわけで自己責任と申しますか、何事も、どんな不幸であっても、どんなに人から嫌なこと悪い事があっても、根本においては自分が作り、自分が選んだっていうことを、土性骨から知ることですね。
  この不幸は自分の魂の浄化のために必要なんだ、魂の浄化っていうのは、自分がそのことによって本当に幸福になることなんだ、神のようになることなんだ、だからそのために根本において何事も人のせいにしちゃいかん、環境のせいにしちゃいかん、世の中のせいにしちゃいかん、ということを土性骨からお持ちになることが進歩の原理でございます。
  さてこうして、何事も自分が作ったものだということがおわかりになりますと、いろんな不幸、災い、苦しみ、苦難、ということに感謝の念が出てくるんですね。「そうか、苦しみ、不幸、災いが起こったってことは、これは私が作ったものか。それによって初めて私は魂が磨かれて進歩して幸福になるのか。苦難というものは、災いというものは、本当はありかたいものなんだな。私の進歩のため、私が幸福になるためになるんだ」と。
  これが苦難、災い、不幸の本当の意味でございます。世の中の人はみな間違えちゃうんですね。「悲しい」「苦しい」「もう逃げたい」と言います。そうじゃなくって、それは本質においてはあなたの進歩のため、あなたの幸福のため、なくてはならないもので、あなたが作ったものなんです。だから、苦難に感謝するってことが人生の正しい態度であるということです。これができないと進歩できないっていうことを、ひとつお考えおき願いたいんですね。

 人生の道は、感謝そして奉仕  [TOP]

  以上のことがわかりますと、次は「人様には愛を持たなきやいけない。万事奉仕をしなきゃいけない。それが人間の道だ、真理だ」っていうことが分かってくるんですね。 なぜかと申しますと、苦難や災いは一人では作れませんね。喧嘩や争いをする、人に騙される、あるいはこっちも騙す、といったいろんなできごとは、人様があって初めて起こることです。
  この地上生活で生きることは、地球上に一人でいたんじゃできません。人様があるからいろんな接触があって、経験ができて、その経験によって進歩するし、まあたまには苦難があって、それによって進歩するんです。
  「人様があるから人生経験ができ、苦難もある。だから自分は進歩できるんだ。だから私は最終的に幸福になれるんだ。神になれるんだ」というわけですから、人様に感謝しなければいけないっていうことが理解できますね。
  地上で生活するための衣食住を一人で作るわけにはいきませんからね。衣食住は全部人様が作ってくださってるわけですから。まあそこから言っても人様には感謝して、お返しをしなきやいかんていうことが分かりますね。
  それだけじゃございません。例えばこうやって心霊の話をお聞きになって、「ああ今日はちょっとばかりいい話を聞いたな」と思われるかも分かりません。それはこの私というものが話をしたからです。しかし私はこの話をやっぱり他の人から聞いたわけなんですよ。教えてもらったり、本で読んだり、人があったから私はこの話を聞けて、それで皆さんに話をすることができたというわけです。人生の教師は人様なんですよ。
  しかし、「いや世間は教師ばかりじゃない。悪いやつもいて、泥棒もいれば、騙す奴もいるし、殺人者もいるじゃないか」とおっしゃるかも知れません。いいえ、我々はそういうものを見て、悪い人を見て、「あんなことをしてはいけないな」「あんなことをしたら不幸になるな」ということを知るわけで、悪い人を見て(これは反面教師と言いますね)やっぱり我々の勉強になる、魂の進歩のためになる。
  ですから、人は一人残らず何らかの教師(反面教師、あるいは本当の教師)なんです。我々にいろんな人生経験を与えてくださる方なんです。それがあって初めて我々はこの世に生きて、魂を進歩させて、結果的に神のようになって幸福になれるんですから、人様には感謝をする、奉仕をする、何かお返しをすることが人間の道なんですよ。誰一人として自分の役に立ってない人はいないんです。ですから自分も人様に奉仕をすること、愛を持つこと、これは人生の根本の道なんです。
  だから人生の道というのは奉仕です。愛です。これはキリストも釈迦もそのとおり説いてくれています。これはもう根本原理なんです。

 愛がすべてを変える  [TOP]

  では次に、この愛っていうものは、奉仕っていうものは、どんなに大事なものであるかということを申しあげます。自分が幸福になりたいと思ったら、奉仕に生きないと駄目なんです。愛に生きないと駄目なんです。自分の子供を幸福にしたいと思ったら、自分が奉仕に愛に生きないと駄目なんです。
  たとえば悪い人がいるとします。自分に悪い事ばかりする人がいるとしますね。その悪いと思われる人を良い人にして、自分に親切な人にするには、白分が愛を持たないと駄目なんです。言い換えますとね、人を変えるのは愛、人を良く変えるのは愛なんです。自分を良く変え進歩させるのも愛です。世の中を良くするのも愛なんです。それ以外にないんです。
  なぜそういうことが言えるかと言いますと、例えば私に悪い事をする人がいるとしますね。普通は「この野郎」って憎んだり、仕返しをするとこですけども、仮に私が愛の心を持って対処したとします。どんなに騙されても、蹴飛ばされても、その人のためを思って親切に、影になり日なたになり何かをしてあげたとしますね。
  すると、いつかわかってくれるんです。すぐじゃありませんが、いつかわかってくれます。なぜかというと、これは心霊的に言うと非常に明瞭なんです。私が愛の気持ちを相手に持ちますと、それは愛の波長ですね。私の本体や霊体から出た細かい精妙な、愛の美しい波長が、相手の方に行くんですよ。相手に向かって電波を発しているんですね。しょっちゅうそういう電波が来ますから、相手もいつかそれに反応するんです。なぜ反応するかというと、相手も本当は神の火花、神の子なんです。そういう波長をどんな悪人でも内部に持っているんです。神の子ですから、愛の火花を少しであっても持っているんです。だから私がしょっちゅう愛の火花を出しておりますと、いつかその火花に同調致しまして、ピリピリッとくるんです。そしてその人は改心してくれる。
  だから非行少年、あるいは悪い人、このような人を立ち直らせる方法はひとつしかありません。こちらが愛を持って対することです。そうすると愛の波長がいつか通じまして、その人はフッと目が覚めるんです。そして相手も愛の心を持つ人間になるんです。愛の心で波長が合いますと、相手の方も「ああ、あの人私のことを思ってくれていたのか。嬉しいな」と思うでしょう。「ありがたいな」と思うでしょう。そのような心を持ちますと、相手にも守護霊というのがいまして、良い霊がいまして、加勢をしてくれるんです。その愛の心を何倍にもふくらしてくれるんです。そして、その人の全身に愛の心が満ちていく――これが改心というんですね。
  ですから、相手を良く変えたいと思えば、恨んだり仕返しをしたりしてはいけません。こちらが愛の心を持つことによってのみ、相手と波長が通じて、初めて相手が改心して愛の人間になっていく、立ち直っていくんです。このように、相手を良くしていく方法は自分が愛の心を持つ以外にないんです。

 愛は自分をも変える  [TOP]

  それからね、こちらが愛の心を出しますと、自分の方ももっと愛の心を持った素晴らしい人間になっていくんです。なぜかと申しますと、自分のやったことは全部幽体に記録されて一つも失われることはないと申しましたね。私が繰り返し繰り返し愛を持ちますと、その度に、「愛を持った。愛を持った。愛を持った」という美しい印が私につけられまして、私はますます愛を持つ人間になっていきます。
  またその時私が持った愛の心は、波長の原理によりまして、私の守護霊や善霊を呼び寄せて、私の愛の心を何倍にも増加させてくれるんです。ということがありますので、私自身が、本当は向こうから恨まれたり、悪い事をされているのに、それに屈せず愛の心を持ち続けますと、それによって私は、一層善良な愛の人間になっていくんです。
  それと同時に相手もそれで愛の人間に変わっていくんです。それだけでなく私自身の環境、生活環境が幸福なものに変化していくんです。すなわち愛の心を持ちますから良い霊が感応してきまして、家庭生活も事業も、それから健康の面も、善霊の働きによって良いものに変化させられていくんです。こういう仕掛けがございますので、なぜ釈迦やキリストが愛を説いたか、慈悲を説いたかというと、愛こそは自分を変え、人を変え、世の中を変え、幸福にしていき、進歩させていく原理だからなんです。それだから説いたわけなんですね。

 自己責任→苦難に感謝→奉仕、これが進歩の原理  [TOP]

  以上が「どうしたら人間は進歩していくか」のポイントでございます。そのポイントは、最初に申し上げましたように、「何事も人のせいにしない」「運命も環境も、幸不幸もすべて自分が作ったもの」「それ以外のものも、人が作ったものはない。全部自分が種を蒔いている」ということです。だから「何事も自分の責任」――これが根本です。
  そうすると、「いろんな苦しみや災いというものは自分の進歩のためにある」ということがわかって、苦難に対して感謝が起こってきます。苦難に感謝ができるようになると、人生のすべての出来事は人様があって初めて起こってくることで、人様があって初めて自分が進歩し、結果的に神になり幸福になるんだから、人様にお返しをしなくてはいけない、人様に奉仕をすることが人間の生きる道なんだ、ということがお分かりになるでしょう。奉仕をするってこと、愛を持つってことは、自分を進歩させるだけでなく人をも変えていきます。世界も良くなっていきます。そして自分が幸福になっていく道なんです。以上が心霊的に申しまして進歩の原理でございます。

 母親のする神のような仕事  [TOP]

  そこでもう一言だけ付け加えておきます。人間には世の中に対する責任がございます。皆さんは家庭の主婦でございますから、家庭に対する責任、特に子供に対する責任がございます。それから人間でございますから世の中、世界に対する責任がございます。こういう世の中や子供に対する責任を果たすようにしていただきたいと思うんですね。
  じゃあどうしたら責任を果たせるのか――。子供は良い子供に育ててもらわなきゃいけないわけです。母親っていうのは、神様と同じように大変な仕事をしておられると思います。第一に子供を産むでしょう。神様が人間を創造したのと同じように母親は子供を産むわけですね。それだけじゃなくて、産んだ子供を改造していきます。良い方にも悪い方にも改造していくのは母親なんですよ。もちろん父親の影響もありますが、特に母親の影響が大きいですね。
  なぜかと申しますと、赤ちゃんが産まれてくる時に肉体を持って産まれてきますね。ちっちゃいながら五体全部そろっております。指も五本あるし、目もちゃんと二つついてるしね、大人とまったく同じ形です。ただちっちゃいだけで肉体は完全で生まれてくるんです。ところが人間には肉体の他に媒体があると申しました。幽体だとか霊体だとか本体だとかあると申しましたね。
  その中の幽体は生まれた時に形が出来ていないんです。生まれてから形成されていくんです。芽はありますよ。前世で自分が作ってきた幽体の芽は持ってます。つまり種原子は持って生まれてきます。ですけども、これをちゃんと一人前の人間としての幽体を作っていくのは生まれてから7歳位までなんです。幼稚園時代なんです。その間に幽体が作られていくんです。
  そこで、幽体は感情の媒体だと申しましたね。良い感情を持った子供になるか、悪い感情を持った子供になるかはそれから決まっていくんです。理性の発達した子供になるか未発達の子供になるかはそれから作られていくんです。もちろん、本人が前世から作ってきた感情なら感情、理性なら理性の原形はありますよ。それが7歳までに形をとっていくんですが、その間にいろんな印象を与えて幽体のコンピュータにいろんな記憶をさせていくことができるんですね。新しくソフトを入れてコンピュータにいろんな記憶をさせることが可能なんですよ。
  ですから、良い家庭をお作りになりますと、つまり良い雰囲気、良い環境をお作りになりますと、子供の幽体が作られていく時に良い影響がたくさん印象されていくんです。そして、子供は良い人格、良い性格の人間に変わっていくんです。もちろん持って生まれたものがございますから、その部分は動かし難いんですけども、それに良いものがたくさんプラスされるんです。
  それから、前世でその子供が悪いもの、悪い因子を持っていたとしましても、それが発揮できないように、悪い因子を衰えさせて形をとらないようにできるんです。過去に悪いものを持っていても、7歳ぐらいまでに使わなければ未発達でしなえてしまいます。逆にいい環境を与えると、良いものが新しく追加されていきます。持って生まれた良いものがあると、更にそれが強くなっていく。これは心霊でしか分からないですけどね。その媒体が7歳ぐらいまでに作られていくから、その間の家庭の環境の影響が非常に大きいってことなんですね。良い教育を与えると、子供をうまく改造できるってことです。善人に改造できるってことですね。
  そして、これは小さい時ほど効果があるんです。だから胎教ってものが一番重要なんですね。良い人間にしたい、あるいは例えば音楽家にしたいと思ったら、良い音楽でも聴かせれば良いんです。演歌ばかり聴かせるとちょっと程度が下がって、名曲を聴かせると大分上品になるかも、‥‥というふうに胎教が非常に重要です。生まれてからちっちゃい時が非常に重要です。
  そのようにして良い環境を与えることによって、良い子供に改造できます。だから母親は、子供を産むだけでなく、その子供を作り替えていくことができる大変な仕事なんです。そういう意味で、主婦の仕事、母親の仕事って非常に大事なんです。人生で最大の仕事は、この主婦の仕事じゃないかと心霊的には言うことができるんです。ただみんなこれをばかにするんです。だから世の中だめになっちゃうんですね。

 子供の教育のポイント  [TOP]

  そこで、どういう家庭が良い家庭なのか、どういう教育をしたら子供が良い子供になっていくのか、ということですが、それはすでに申しあげました。「何事も人のせいにしない」ということが基本的に子供に植え付ける一番大事なことなんですね、これはもう根本で、これさえ植え付けておけば良いって言うぐらいですね。
  わがままな子っていうのは、何ごとでも全部人のせいにするんですね。そういう子に限って、人が幸せになると、ひがんだり恨んだり嫉んだりしますね。また、わがままないろんな欲望を持ったりします。これが結局、将来、低級霊を招いて自分を不幸にする原因なんです。ですから、わがままな子に育ててはいかんと言うんです。
  基本は、何事も人のせいにしない強い人間に育てることでございます。これは根本なんです。これさえやっておけば、もうその子は立派に素直な性質と強い独立心とやる気を持った人間になっていきますね。
  もちろんその次に、物事に感謝をする気持ちや、愛の気持ちを教えてあげるんです。人に対する思いやりの心、奉仕の心を教えてあげるんですね。そういうふうに致しますと、子供は間違いなく立派になっていきます。子供が良いものを持っていればますます素晴らしい人間になり、仮に悪いものがあったとしても大いにそれは是正されて良い人間に変わっていきます。このように作り替える仕事をしなくてはいけないということなんです。
  だけどそういうことを申しますと、じゃあ今から子供に言ってやろうということで、「いけませんよっ! ほらっ、愛の心もちなさいっ! 人に親切にしなさいっ! 人のせいにしちゃいけないでしょっ!」と、自分は人のせいにばかりしてたり、人の悪口ばかり言ってたり、噂ばかりしてたり、人をいじめたりやってるくせに、子供にばかりガミガミ言う――これでは子供が言うことを聞きません。それはまずいですね。

 子供の教育とは、母親の実践  [TOP]

  子供を育てるいい環境を、家庭を作るってことは、母親が自ら行なうことなんですよ。子供にガミガミ言うことではないんです。母親が自ら何事も人のせいにしないっていうことなんですよ。そういう人生を送るっていうことなんです。そして感謝をして、奉仕と愛の生活を実践なさることです。そうしますと、わざわざ子供に口すっぱく言わなくったって、子供は自然にそうなっちゃうんです。
  なぜかと申しますと、母と子はへその緒は生まれた時に切断しますけど、魂の緒はつながっているんです。紐があるんです。なぜその子供があなたを母親として選んで生まれてきたかというと、再生の時に選択したんです。「あの人をお母さんとして生まれたいな。あの家庭に産まれたいな。あの人と一緒に生活したいな」と選んできたんです。選ぶにあたっては前世からの縁があったわけなんです。えにしがあったわけなんです。だから選んできたんですけどね。
  そして、生まれてくることによってますます縁が深くなっていくわけなんです。ですから、へその緒は切断したけど、目に見えない霊的な緒がつながっているんです。母と子の間が最も強くつながっております。つながっているってことは、母親の心がすぐ子供の心に影響を与えるということです。
  なぜなら、縁と言いますか愛と申しますか、そのつながりっていうものが、心と心を通わせる最大の血管なんですよ。ですからお母さんが何事も人のせいにせず、奉仕と感謝の生活をしますと、教えなくたって子供にみんな行きます。子供は自然にそういうふうになっていく。子供の幼い媒体は全部そういうふうにコンピュータに記録されていきます。
  そして、子供が現実に悪い事をした時に怒ってやれば良いんですね。何かあって人のせいにした時はバシッと怒ってやる。ものを大事にせずに粗末にした時はバシッと怒ってやる。人に意地悪をしたらいけないと教えてやる。‥‥というふうに、悪い事をしたら教えてやって、そして日常は母親自身が魂の進歩の道をお歩きになっていれば、自然にそこに良い家庭が出て来るんです。愛の家庭が出てきます。これが子供を育てる原理なんです。

 本当の世界平和とは何か  [TOP]

  それから人間は、子供を育てるだけじゃなく、世界に対しても、世の中に対しても責任があるんですよ。今はもう核戦争の起こりそうな時ですから、平和な世界を作らなきゃあいけないでしょう。世の中が乱れておりますから、世の中が良くなるように貢献しなきゃあいけないでしょう。どうしたら良いか。
  じゃあ家庭のことは半分にして、プラカードを持って「核兵器反対」とかのデモに行かなきゃいけないか。どっか施設にでも行って奉仕をしなきゃあいけないのか――。まあ、しても悪くはございませんけども、しなくたっていくらでも世界平和に尽くせるし、いくらでも奉仕が出来るんです。
  じゃあどうすればいいかって? これは霊的な原理が分かっていれば、波長の原理が分かってればすぐ分かっちゃうんですね。プラカードなんて持たなくていいんです。家庭で大根を刻んでいても、お米をといだりしてる時でもいいんです。心を込めて、愛の心を込めてこれをなさるっていうことです。お隣の奥さんと話をする時でも意地悪をせずに、愛の心で奉仕の心で話す。そして、近所に困っている人があったら何か助けてあげる。良い家庭を作ろうと心を砕く。そのような愛の心、奉仕の心を待ちますと、あなたの心から愛の波動が出て、その波動が宇宙に広がって行くんですよ。
  そして、その大根を刻む時の愛が深ければ深いほど、その波長は素晴らしい波長となって世界に広がっていきます。世の中が良くなるか悪くなるかは、この波長なんですよ。人の発する波動が良い波長か悪い波長かで決まってくんです。だから何をしてたって良いんです。大根刻んでいても良いし、洗濯していても良いし、繕い物してても良いし、掃除してても良い。その時の愛の奉仕の心が強ければ、直接世界に影響を与えるんです。それが世界の平和を作っていくんです。
  よくプラカード持って、「戦争反対! 核反対!」とか言って、罵倒してますが、あれは平和を作っているんじゃなくて平和を壊しているんです。戦争を進めているんです、怒り、恨み、反感でいくら平和を叫んでも、出てくる波長は破壊の波長なんです。だから私はああいう平和運動はちっとも平和運動じゃないって言うんです。
  むしろ愛の行為を行なうこと、奉仕の行為を日常行なうこと、そのことが平和を作っていく基本なんです。世の中を改善していく基本なんです。だから誰でも世の中を変えていく資格を持っています。力を持っています。いま何をしているかは問題じゃないんです。そのやっていることに愛の心を込めて行なうということです。それが世の中を改善し、平和にし、幸福にしていくことと直接つながっているのです。
  「奉仕をしなさい」と言いますと、「施設にでも行ってしなけばいかんのか」と、家庭のことをほうり出して、家族には店屋物なんか食べさせて、子供を「うるさいわね!」と叱り飛ばしておいて、施設に行って一所懸命奉仕活動をしている――そんなものはだめですね。まず家庭を治めることです。それで立派な家庭ができるだけじゃなく、立派な子供ができるだけじゃなく、世界そのものを平和に改善して、平和を作り上げていってるんです。
  もしその人が、社会的にも進出をして平和運動だとか、もっと大きな奉仕事業だとかするような運命を持っておいでの方でしたら、その道は必ず開けていきます。まず自分の今やっていることで奉仕の生活をなさっていれば、そこから思わぬところで道が開けていきます。「こっちに来て奉仕活動をして下さい」とか、「こっちで平和運動をして下さい」ということになってきます。それはその人の持って生まれた使命と申しますか、役割ということでございます。しかし、そういうことを外に行ってするかしないかではなくて、人間は自らが何事も人のせいにせず、愛と奉仕の心を持って日常生活を誠実に行なう時に、自分も幸せになり、子供も家庭も良くなり、世界も良いものに作り変えていけるというわけです。
  これは心霊的にいったら原理でございますね。だから個人の力って大きいでしょう。世界も変えていくんです。自分の運命も、子供の運命も変えていく。世界も変える。なぜかというと、人間は神の子だからです。もともと神と同じ力を持っているからです。それを発現する方法をお話し申し上げたわけです。
 
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