幸福は幸福を呼ぶ

宇野 千代・著 海竜社
 
 幸、不幸は本人の望み次第である

  あなたの仕合わせは、ほんのすぐ、あなたの身近にあるのです。人間の欲望を遂げたい気持ちは、限りないものだと思いますが、あなたはその欲望を、どのくらいの高さまで遂げたいと思っているのですか。あなたは、あなたの思っているよりも、ほんの一桁、ほんのちょっと格下げをしただけで、あなたは仕合わせになれるのだとは思いませんか。
 

 
人間は幸福になる権利がある

  実際、傍からみてさも幸福そうに見えるとか、いかにも不仕合わせらしく見えるとかいうことは、本人にとってはそれほど意味のあることではない。傍からは不幸らしく見えることも案外幸福だったり、幸福だろうなァと思われることも、それほどでなかったりする。
  幸福であるのも不幸であるのも、本人の考え方一つできまる場合が多いと思うのであるが、そういう点で、私は自分を幸福に感じる感じ方が案外上手な人間だと思うのである。つまり、幸福を知る才能が、これでもなかなかあるように思うのである。

 仕合わせになる念力

  多少気分が悪いような日でも、人に向かっては、「何だか今日は好いことがあるのかしら。とても嬉しいような気がしてるのよ」と言ってみると、その、いま、自分で自分に言った言葉によって、ほんとうに晴れやかな気持ちになる。そして、その顔つきを見た人は、その暗示によって、「この人は仕合わせなのだな」と思う。これが仕合わせになる念力である。
  念力とは、なりたいと思うとおりのことを一心に念じて、そうなる、その力のことである。この念力によって、自分の心も左右できるが、同じ手続きによって、人の心も左右できる。

 言葉は人の心を左右する魔術師である

  それにしても、現代人は何て確信することが下手なのだろう。或いは疑うことが好きなのだろう。
  朝から晩まで、自分の体のことを疑ってばかりいる。疑って、びくびくしてばかりいる。まア、見ててごらんなさい。年配になった男女が集まると、判コで押したように病気の話ばかりする。自分の体の状況を、あれこれとそれは詳しく述べ立てる。一体、自分の病気の話をしてどうなるのか。人の病気の話を聞いて、それで楽しいとしたら異常である。
  私はできるだけ自分の体の具合の悪いことは人には話さない。これは自分の身の上話を人にしないのと同じ真理である。
  自分の体の具合を人に話すことによって、イヤでももう一度、はっきりと、自分の体の具合の悪いことを、心に思い浮かべる。これがイヤなのである。もう一つは、自分の体の具合が悪いのは、自分で知っているだけでたくさんである。他人に聞かせて、他人にまでイヤな気持ちにさせるのは失礼ではないか。悪い話は、それが自分の体のことでも、決して口には出さない。「ああ、くたびれた」「頭が痛い」「何だか風邪ひいたようだ」「腹が痛い。胃潰瘍じゃないか」などとは決して言わない。これも私の積極的養生法の一つである。
  その代わり、好い話は会う人ごとに自慢する。「私は風邪もひかないし、便秘も下痢もしないし、つまり、いつでも健康体の平均状態なんです」とか、「私は今年の秋で満七十二歳になるんですけど、何てゆうか、体中に若い頃と同じような活力があるみたい。だから、七十二歳が自慢なんです」などと平気で言う。
  この自分の言葉はもう一ぺん自分の中に戻ってきて、そうだ、確かに若い頃と同じ気持ちだなァと思うのである。つまり、自分の言葉で、繰り返し自分に暗示を与えるのである。
  この繰り返される暗示くらい、魔法のような力をもつものはない。

 人は自分の思った通りの人になる

  思うというのは、予期することである。いつでも、失恋しやしないか、失恋しやしないかと思っていると失恋する。これは、長い間、船に乗っていた私の弟から聞いた話であるが、一度でも、舵をとるのを誤って船を衝突させたことのあるものには、その船会社では、二度と船の舵をとらせなかったということだ。衝突しやしないか、衝突しやしないか、衝突すると思ってる瞬間に、百発百中衝突する。
  人の心というものは、こんなに弱いものかと呆れるばかりであるが、私もある時、気が弱くなったとき、「これは癌じゃないかな」と思うことがある。船乗りの話の通りだと、私はこのとき、癌に一歩近づく。東京から那須まで車で行った途中のことである。ふいに吐き気を催した。後で考えると、車で二百キロの道を飛ばすことなどめったにないので、そのためもあったか。
  東京へ帰ると、念のために虎ノ門病院で検査をして貰うと、「胃の中に何とかいう瘤(こぶ)ができている。放っておいても何でもないこともあるが、瘤に穴があくことがあると、癌に移行する可能性も十パーセントはある」ということであった。私は心配するのがイヤである。手術する段階ではないと言われたが、その瘤をとって貰うことにした。
  決心すると奇妙なもので、とてもさっぱりした気になった。たぶん私は、癌になりはしないか思わなかったら、この瘤はできなかっただろう。私の毎日の生活は、一万五千歩なのに、それは体の注意だけで、心の中では、癌になることをひそかに予期していたので、その予期に応えて、瘤ができたのだろう。そう解釈した。
  心は体の思うとおりにはならないが、体はすぐ心の思う通りになる。これがその、好い見本だと思った。

 幸福は幸福を呼ぶ

  人はよく、家庭内の悪いことは伝染する、と言いますが、あれは間違いです。加速度をもって伝染するのは、家庭内の幸福なことばかりです。幸福とは、どういうもののことでしょうか。それは気持ちよく、人の心を包むもののことだからです。
 人が聞いたら吹き出して笑ってしまうようなことでも、その中に一かけらの幸福でも含まれているとしたら、その一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きて行く。幸福のかけらはいくつでもある。ただ、それを見つけだすことが上手な人と、下手な人とがいる。幸福とは人が生きていく力のもとになることだ、と私は思っているけれど、世の中には、幸福になるのが嫌いな人がいる。不幸でないと、落ち着かない人がいる。
  これは、私が利己主義者で、人の不幸に無関心でいたいからでは決してない。その人の不幸は、実はほんとうの不幸ではない。不幸だ、とその人が思っているだけのことだからである。
  無意味に人の不幸に感染するのは、利口なことではない。紙一重の違いであるように見えて、この二つの間には、実に大きな違いがある。
  幸福も不幸も、ひょっとしたら、その人自身が作るものではないのか。そして、その上に、人の心にたちまち伝染するものではないのか。とすると、自分にも他人にも、幸福だけを伝染させて生きて行こう、と私は思う。那須の家の庭に苔が生えたのを見ても、幸福である。いま、すれ違っていった人の笑顔を見たのも幸福である。幸福はたちまち伝染して、次の幸福を生む。
  人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。何を好んで、不幸な気持ちの伝染、不幸な気持ちの反射を願うものがあるか。幸福は幸福を呼ぶ。幸福は自分の心にも反射するが、また、多くの人々の心にも反射する。
 
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