真正日本神道

中矢伸一・著 KKベストセラーズ 1994年刊
★ なわ・ふみひとの推薦文 ★ 
 現代ではごく普通の人が異次元の存在とコンタクトを取ったり、UFOや「進化した宇宙人」からのメッセージを受け取ることができる時代になっています。テレビやインターネットの普及によっておびただしい情報が飛び交うようになり、その影響で私たちの脳がどんどん進化している現れと見ることができます。人は進化する生き物だと言われていますので、これはある意味では素晴らしいことかも知れません。
 しかし、異次元に関する知識が不十分なまま、安易に交流を始めますと、極端な場合は魂を乗っ取られるという悲惨な状態に陥る危険性があります。現象的には「脳ジャック」という形で、いつもなにか独り言をつぶやいたり、見えない空間に向かって話しかけたり、突然にプッツンときて異常な行動に走る、といった状態です。それが顕著に現れ始めているのが今日の日本社会の姿ではないかと思っています。
 ここでは、中矢伸一氏の著書を通じて、異次元(神様や霊の住む世界)に関しての基礎的な知識をご紹介したいと思います。おもしろ半分のオカルト的なものではなく、大変まじめに書かれたレベルの高い内容ですので、ぜひお目通しいただきたいと思います。
  神憑かりの類別

  幽斎神道における神憑かりには、大きく分けて「自感法」「他感法」「神感法」の3種類がある。
 自感法というのは、自分一人で瞑目合掌し、ときには印を組み、鎮魂の祝詞を唱えるなどして、自分自身の身に意図的に神憑かり現象を誘発せしむるものである。
 他感法は、二人一組になって対座し、一人が神を自分の身に降ろす被憑依者の役となり、もう一人は、憑依現象を促し、その人に降りた神が如何なる神であるかを見分け、神意を尋ねる役となる。前者を神主、後者を審神者(さにわ)と言う。
 神感法は、被憑依者としての人間の都合に関係なく、突如として神からの発動が起こるものである。前の二法が人間側からの働きかけによって発動が起こるのに対して、この方法は、あくまで神(霊的実体)の側から起こされる一方的な憑依現象である。
 天理教の教祖・中山みき、大本教の開祖・出口なお、そして日月神示の降りた岡本天明などは、みなこの神感法によって神意の伝達を受けたのである。
 この三種に共通するのは、どれも有形のものということである。神憑かり現象が起こったことが、第三者の目から見て、特に意識しなくても明確に確認できるのである。
 これに対して、無形の神憑かりというものがある。神が憑かっていることが、本人にも自覚できず、他人にも識別できないというものだ。あえて言うなら「無感法」ということになる。
 歴史に遺る名作を数多く生み出す音楽家や芸術家、人類の文化発展に貢献する発明家など、本人は特別に自己の意識状態を表現するのに「ポゼッション」とか「トランス」などというオカルト的な言葉を好まず、むしろ単なる「インスピレーション」の類に入れたがるとしても、明らかに霊学上は無形の神憑かり、すなわち無感法に属するケースである。
 また、特に後生に名を残すこともない普通の人であっても、本人も周囲も知らないうちに無形の神憑かり状態となっていることもある。
 実は、本当の神憑かりというものは、人間の感覚からすれば、識別が大変難しいものなのである。神(高級霊)の波長というものは、あまりにも微妙かつ繊細であるため、本人にさえも神が憑かっているとはわからないのである。
 誰の目にも「あの人には何かが憑(つ)いている」と判別できるケースは、むしろ異常であり、要注意だと言える。

 真実の神は直接人間には憑からない

 本当のことを言えば、そもそも神が人間に憑かるなどということは起こりえないのである。究極的存在としての神は、人知を超越している。だから、われわれ人間は「神」という言葉を使い誤っていると言える。神が存在するらしいことはわかるが、その神とは如何なるものであるかは、絶対に知りうるものではない。
 ただし、神が直接的に人に憑かるという意味でなければ、確かに神憑かり現象は起こりうる。というのは、重層的次元構造をなす神霊界においては、媒介的存在である神霊(高級霊・天使・聖霊など)の段階を中継することによって、神意を感受することは可能であるからだ。このように「神」からの直流的な意思の流れを「正流」という。
 だが、この正流とて、現代人ではなかなか受けることはできない。つまり、神からの正流を受けられるほど身魂の清浄な人が、ほとんどいなくなっているからである。
 人間は誰しも内的には神性を具有しているが、現在はあまりにも曇り(穢れ)をつみ過ぎて、これがほぼ塞がった状態にある。この神性が甦ったときにはじめて、ある程度の神界との交流が、媒介役を通じて許されることになるだろう。
 曇りをつんだ状態で、無理に神界との交流をはかろうと試みれば、低級なる霊的世界と通じることになる。だから、自感法や他感法などによってこちら側から神へ働きかける行法は、極めて危険なのである。
 これまでは、それなりに霊格が高く霊的因縁のある人物に、神界から一方的に伝達される神感法(自動書記など)の形が取られてきたが、これとて人類史上めったに起こるものではない。
 日月神示には、次のように示されている

 霊人(高級霊)は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。(中略)
 神が直接、人間を通じて人語を発し、また書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉はいかに地上人を通じて人語にしても、その神に通じる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ぬのである。
(『地震の巻』第十二帖)


 高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならんぞ。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤もらしく人民の目には映るものであるぞ。高度のものは、その人民のミタマ如何によって、それと同一波長の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降(くだ)って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。(『龍音之巻』第三帖)

 浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応はほとんどないぞ。(同・第十六帖)
 
 この意味からすれば、“神憑かり”というより“霊憑かり”という言葉を使った方が妥当なのかもしれない。

 鎮魂帰神について

 「鎮魂」は、精神を統一し、心を澄ませることによって神界との交流をはかろうとする行法。
 「帰神」は、いわゆる「神憑かり」になることを言う。一般的な方法としては、神霊が降りる神主の役と、神主に憑かった神が如何なる神であるかを査定し、問答を交わす審神者(さにわ)の役の二人で行なう。この場合、神が降りた神主役の人の霊魂は覚醒状態にあって、自分に憑かった神の状態を客観的に観察することができるという。

 守護神には「正守護神」「副守護神」「本守護神」の三種があると言われる。
 出口王仁三郎は、その違いについて『霊界物語』の中の「聖言」(第48巻)において「聖霊の善なる者を正守護神といひ、悪なる者を副守護神と云ふ」とし、正守護神とは「人身を機関として天国の目的即ち御用に奉仕すべく、神より造られたもの」であり「副守護神なる悪霊に犯されず、よく之を統御し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加わるものである」と述べている。
 つまり、これを整理して解釈すれば、その人の精霊(霊魂)が、高度な霊界からの直流的な正しき流れを受けるときは善なる霊、すなわち正守護神となり、本来神より天国の御用に奉仕する目的で与えられた肉体の正しき主となる。一方、低級な霊界からの歪んだ外部的流れを受けるとき、その人の精霊は悪霊、すなわち副守護神となる。
 この副守護神の影響に振り回されることなく、よくこれを統御できるようになれば、その精霊は本守護神となり、天人の列に加わることになるというわけである。
 これら3タイプの守護神は、自分とは別物の外部霊のことを指しているわけではなく、霊的な自分の進化の段階と考えてよい。つまり、低級な波長の霊界に翻弄される段階では、その人の精霊は副守護神であり、高級霊界の正しい波長と交流できるようになれば正守護神となり、さらに悪しき波長の世界を完全に統御し、影響を受けぬ自分となれば、神的自分としての本守護神となるのである。
 日月神示にはこのことが、同じ言葉でもって次のように示されている。

 霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。
(『冬の巻』第一帖)


 鎮魂帰神法の実際――谷口雅春の場合

 元大本信者で、後に「生長の家」を創立する谷口雅春は、はじめて綾部(大本の本部のあるところ――なわ註)を訪れて鎮魂帰神法を受けたときの体験を、『神霊界』(大本の機関誌――なわ註)誌上で発表している。
 もともとキリスト教の信者であった谷口は、大本を訪れた当初、大本の人生観に対しては「人生の妖怪化」という印象を受け、激しい反発を覚えたと告白している。しかし、鎮魂帰神を受けてみると、何と自分に憑依していた狐の霊が現れ、自分の口を使って喋りだした。この強烈な体験を通じ、谷口は「一切の人生の機構(からくり)が明瞭になったような気分がした」と述べている。
 その体験の一部始終は、次の通りである。

 鎮魂帰神が始まると、施術者は谷口に対し、この肉体に憑かっている神はどなたですかと尋ねた。しかし彼は、帰神などは自己暗示による現象に過ぎないと固く信じ、施術者の暗示などにはかかるまいと抵抗する。
 当時の大本では、憑依霊に口を切らせる(言葉を喋らせる)ために、最初に「ウシトラノコンジンサマ」と言わせることが慣例だったようで、このときも施術者は、谷口に、まず艮の金神の“ウ”から声に出してみるように促した。
 谷口は、そんな馬鹿なことを言ってたまるかと頑迷に抵抗を続け、口を噤んでいたが、下腹部で何者かが動くのを感じ、それが次第に上へせり上がってきて喉が詰まりそうな感じになった。そして、唇が痙攣するようにピクピクと動き出すと、くしゃみを堪(こら)えているよりも苦しいような状態となり、ついに“ウー”という声が出てしまった。
 それからは順次、“シー”“トー”“ラー”というように、ついに「ウシトラノコンジンサマ」と言わされてしまったのである。
 「艮の金神様が言えましたら、貴方の御名前を伺いましょう」
 「‥‥‥‥」
 「御名前はないんでしょう。あるなら言ってごらん」

 私(谷口)はこの時どんな神の名を連想したかと言いますと、ゴッド、エホバ、宇宙の太霊、天帝と言うような名でした。
 「ミクルミヒコノミコト」
 こう言って、ある霊怪な腹中の一存在が答えるのでした。それは私の全く連想しない神の名前なのです。私はそんな名前の神があるやらないやら全く知ってはいないのです。それ故、私はこの答えが暗示に対する連想作用であると考えることが出来なくなりました。
 「美久留美彦(みくるみひこ)様は、どこにお祀りしてございますか」
 「明石の浦」
 「お供え物は沢山ありますか」
 「ある、ある」
 「何かお供えがしたいんですが、何が一番お好きですか」
 「油揚げが一等好きだ」
 「この肉体に食わせれば好いんでしょう」
 「そうだ、そうだ」
 私は、私の口を使ってなされるこの会話に驚いていました。何故と言って、私自身が大変油揚や天麩羅が好きであったのですから。そう言うよりも憑依物(つきもの)が私の肉体を使って天麩羅を好いていたという方が真実に近いのかも知れません。
      (『神霊界』第89号「つかれたる人」)


 こうしてついに憑依霊は、その正体を露呈した。さらにこの狐は、谷口の肉体には29年前に彼が生まれたのと同時に憑いたこと、その理由は、自分(狐)が谷口の父親によって罠にかけられて殺されたため、恨みに思い、谷口に憑いて父親を殺させ、復讐を遂げようとしていたことを白状したのである。
 谷口の父親は既に他界していたが、実際、生前は何度、実父を殺そうと思ったかしれないという。それは、谷口の恋愛問題が原因だったのだが、その恋愛も、憑依霊の告白によれば、相手の女性に仲間の一匹が憑依し、狐どうしが互いに恋愛し合っていたというのだ。
 自分の口から語られる憑依霊の言葉を明瞭な精神状態で聞きながら、谷口は驚きと興奮を隠せなかったようである。

 その頃私達は恋愛の神聖ということを考えていました。『恋は霊と霊との囁きである。二人は互いに夫婦になるべく運命づけられている』私たちは二人の恋愛を導いた運命の神様に対して『どうぞ二人を一緒にして下さい』と頼んでいました。
 今から考えてみますと、両人の心に恋愛を植えつけさし、そして私の一家を惑乱し、私の父親を殺そうとした運命の女神は、実は天麩羅と油揚とが大好きな狐に過ぎなかったのです。私の思想感情嗜好等の一切は憑依物に左右されているので、何処までが狐の心情で、何処からが自分自身の心情であるか全く区別することが出来ません。憑依物が欲するものを欲し、憑依物が恋するものを恋し、憑依物が嗜好するものを食し、そして『自分の欲求に忠実なるものだけが自分自身の生活を生活するのだ。他の人は奴隷に過ぎない』と思っていた私が、実は狐の奴隷であったとは、何という皮肉なことであったでしょう。(同上)


 現代人はほぼ全員が副守護神に翻弄されている

 谷口は憑依霊という言葉を用いて、正守護神を「先天的憑依霊」、副守護神を「後天的憑依霊」とも表現している。
 そして、大本の鎮魂帰神の主要目的は、後天的憑依霊たる副守護神を改心させて、正守護神の主権を回復することにあり、人間はそうなったときにはじめて、本来の人としてのあるべき姿を取り戻すことができるのだ、という意味のことを述べている。
 次にその箇所を引用しよう。

 副守護神が改心し、先天的憑霊なる正しき守護神が吾々の肉体を守護するようになると、肉体の精神状態がすっかり浄化され、嗜好も一層人間らしくなります。鎮魂の主要目的は副次の憑霊を改心せしめて、正位の守護神の主権を回復することであって、その目的さえ達すれば、一切の病癖は随伴的に回復します。
 従って、病癖に対する対症的暗示もしくは説得は不要であります。鎮魂帰神の施法中、審神者(さにわ)は決して酒を飲むな、淫欲を貪るな、四足獣(よつあし)の肉を食うななどと、憑霊に対して命令はしませぬ。しかし、霊が帰順すれば、何の暗示も与えずに大酒が飲めなくなり、淫欲は恬淡となり、四足獣の肉などは全然食べられなくなります。
 単に大本の名称を聞いただけで霊が帰順して、それ以後肉を食べれば忽ち三日位下痢を続けて、消化器を洗濯される人などもあります。正統の天孫族たる日本人は、神界の規則に依れば、獣肉類を食べるべきでないのであります。それ故、霊が帰順すれば霊そのものが神界の規則に従って生活して行くから、何の暗示も説得もなくして獣肉類が食べられなくなるのです。
 吾々の現在意識は憑霊の意識との複合せるものでありますから、憑霊が肉を食べたいと思えば、自分が肉を食べたくなり、憑霊が手淫をしたくなるならば、自分が手淫をしたくなるのであります。自分が肉を食べたいのであるか、狐が肉を食べたいのであるか、自分は人であるのか、人が狐であるのか――大抵の人はそうした倒錯した生活を送っています。
           (『神霊界』第89号「皇道大本雑和」)


 鎮魂帰神法によって表面化する霊的現象の具体例は枚挙に暇がない。谷口雅春ほどの人物であっても、初期の頃は狐霊などの低級霊に憑依され、想念を狂わされていたのである。
 現代の人間は、とくに副守護神の活動が旺盛で、外流の影響を強く受けており(ほとんど外流の渦中に生きていると言ってよい)、同一波長を持つ低級な霊界(粗雑で、歪んだ波長を持つ世界)との感応を起こしやすい状態にある。現代人では、動物霊に憑依されていない人はほとんどいないと言っても、言い過ぎではないだろう。
 副守護神は物欲や性欲、権力欲、闘争欲などを支配する。このため、副守護神が活発に働いている人が多い社会は、物質的な生産活動や経済活動が促進される。そういう社会的傾向が主流になると、文明は著しい発達を遂げることになる。
 しかし、その反面、霊的(精神的)な向上への道は閉ざされ、高級なる霊界からの直接的な流れである正流が受けられないため、いつまでたっても正守護神に復帰できず、ましてや本守護神にまで位が上がることなどは不可能となる。
 副守護神により生み出された文明は、短期的にはめざましい発展を見せるが、やがて行き詰まり、悲惨な末路をたどることになる。
 
 危険だらけの鎮魂帰神

 およそどのような鎮魂法や帰神法であっても、こうした修法により起こりうる神人感合の現象というのは、間違いなく副守護神による作用である。この理由は、現代人では外流の影響を受けていない人がほぼ皆無だからである。
 鎮魂帰神により副守護神を改心させるというやり方は、実は危険この上ないものがある。一柱、二柱の憑依霊を改心させ、帰順させたとて、本人の想念状態に変化が見られなければ、また憑依霊は呼び込まれる。よほど熟達した者でなければ、かえって低級な霊たちに翻弄される結果となるのである。
 私も大本系の某教団において、鎮魂帰神の行法を習練したことがある。このときも、出てくるのはせいぜい先祖霊であり、ほとんどが魑魅魍魎であった。霊界と呼ぶべき世界が実在することを体験して確認するという意味はあるかもしれないが、あまり深くかかわると危険である。
 実際、その教団では、病気治癒などの奇跡的現象が起こることも稀にはあるが、全般的に見て、むしろ霊的に悪しきものを引き込み、入信前よりさらに不幸になってしまうケースが多い。ひどい場合には、取り返しのつかない重傷を負ったり、病気になったり、命を落とすことさえある。
 霊界などというものには、その道に本当に精通した人でもない限り、関わるべきではないと断言できる。
 日月神示にも、鎮魂帰神を戒める記述は多く出されている。

 神憑かりよくないぞ。やめて下されよ。迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあろうが。皆々心の掃除すれば、それぞれに神憑かるのぢゃ。(『風の巻』第九帖)

 霊人と語るのは危ないぞ。気つけてくれよ。人は人と語れよ。(『黄金の巻』第十八帖)

 人はすべて神憑かっている

 “霊能”が開発されてしまって、いわゆる“神憑かり”状態になる人物も、最近では増える傾向にあるようだ。このような霊媒体質者の神秘力を信じる人たちが集まって、集団を形成し、宗教的活動を行なったり、実際に宗教法人になってしまうところもある。
 こうした霊能力にはよほど気をつけなければならない。霊眼(ビジョンが見えること)や霊耳(霊の声が聞こえること)には、間違いが多い。否、あえて言えば、低級霊による所産の場合がほとんどなのである。
 とにもかくにも、人為的に神人感合に至らんとする鎮魂や帰神といった修法は行なうべきではない。また、霊性や身魂磨きのために、そうした修法を行なう必要もまったくない。

 人間は誰しも、正守護神の次の段階として、本守護神という神的自分を持っている。その意味からすれば、誰でも“神憑かっている”状態にあるわけである。神的自分を持たない人間など一人もいないのだ。
 日月神示にはそのことが次のように示されている。

 人間は皆、神憑かっているのであるぞ。神憑かっていないもの、一人もおらんのぢゃ。(中略)霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ。心を肉体として住んでいるのぢゃ。(中略)
 人間の言う神憑かりとは、幽界の神憑かりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。神憑かりでも神憑かりと判らん神憑かり結構ぢゃなあ。マコトぢゃなあと知らしてあるのにまだ判らんか。(『白銀の巻』第六帖)


 いつでも神憑かれるように、神憑かっているように、神憑かっていても、我にも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百姓が己を忘れ、大地を忘れ、鍬を忘れている境地が、マコトの御霊鎮めであり、神憑かりであるぞ。(『月光の巻』第四十九帖)

 本当の神憑かりとは、正守護神に復帰した人のことを言う。つまり、外流の影響を受けずに正流と想念的交流が常時行なわれるに至った人ということである。
 高度な霊界になるほど、繊細で微妙な波長となるため、神憑かりといっても、自分にも他人にもわからないような、判別不明のものとなる。つまり、「無形の神憑かり」となる。そうなってこそ真の神憑かりであり、われわれはみな、かくあらねばならないのである。

 日月神示にはさらに、次のように示されている。

 仕事は行であるから、務め務めた上にも精出してくれよ。それがマコトの行であるぞ。滝に打たれ、断食するような行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国から生まれる食べ物頂きて、神国の御仕事している臣民には、行は要らぬのざぞ。このことよく心得よ。(『日月の巻』第三帖)
 
 
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