上杉鷹山に学ぶ
鈴村 進・著 三笠書房 
 
 はじめに

 1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日本で最も尊敬する政治家は誰ですか」
 これに対して彼はこう答えている。「それは上杉鷹山です」
 ケネディ大統領が、どういう経緯で上杉鷹山のことを知ったのかは明らかではないが、明治27年に内村鑑三著の『日本及び日本人』(のちに『代表的日本人』と改題)が英文で発行されているので、あるいはこれによる知識であったのかも知れない。
 そののち、この書物はドイツ語とデンマーク語にも翻訳されている。フランスの首相をつとめたクレマンソーは、やはりこれに大きな感銘を受け、「健康さえ許せば、日本へ行ってこの思想家と話してみたい」と述懐した。
 上杉鷹山は、今からおよそ200年前、米沢藩主として、当時貧窮に喘いでいた藩の政治経済を再建し、奇跡的な繁栄をもたらした名君である。しかし、天下平定を成しとげて今日に君臨したわけでもなく、宿敵を西海に追い落として凛然たる武勇に輝いたのでもない。名君といっても東北地方のいわば小藩の藩主にすぎない。
 それなのに、このように高く評価されているのは何故であろうか。

 弱さを認めたところから強くなる 

 15歳の藩主は、当時ではそれほど稀なことではなかった。もっと幼くて、名目だけの藩主になった例はいくらでもある。その場合は、おおむね親戚や老臣などが後見人となって、事実上の政治を行っていた。しかし鷹山の場合は、その年齢で実際に自ら藩政を指揮しなければならなかった。
 藩主となった鷹山は、自分の心境と覚悟を次のように歌った。

 うけ継いで国のつかさの身となれば
          忘るまじきは民の父母

 領民たちの父となり、母となる、という表現は珍しいことではないが、それを実際に行うかどうかが問題である。鷹山の事績を見る時、それが実に誠実に果たされているのを知ることができる。

 当たり前のことを一生懸命努める 

 経営改善のための奇手はない。当たり前のことを一生懸命努力する以外にはない。上杉鷹山の大倹令も、まずは収入に見合う支出を実現することを目的としていた。業績不振の際に、経費節減を徹底することは、経営者なら誰でもやることである。しかし、それが真に実効をあげるためには、部下のひとりひとりが、意欲をもってこれに取り組むことが必要である。それを呼び起こすものは、一に経営者の誠意である。
 経営者は全社員に対して、会社の実情をあからさまに語りかけ、彼らの自覚をうながさなければならない。とかく社員は日常自分に与えられた課題を、大過なくやっていれば、それで責任を果たしたものと思いがちである。
 会社の経営が順調にいっている時であれば、それでいいかもしれない。しかし、諸情勢の変化によって苦境に陥り、その存亡にもかかわる時には、社員全員の勇猛心を奮い立たせなければならない。

 経費節減はゆるやかに浸透させよ 

 自ら率先して、鷹山は一汁一菜を実行し、木綿を身につけた。近習たちもこれに倣ったが、それ以外の家臣たちはなかなかこの命令に従おうとはしなかった。一度華美な習慣に慣れると、これを改めて質素にすることはむずかしい。生活を切り詰めて、水準をダウンすることは、容易なことではない。大倹令がなかなか守られない実情を知った鷹山は嘆いた。

 人間は元来が保守的な考え方をする 

 人間の習性は保守的なものである。改革を実行しようとすれば、まっさきに抵抗が生じる。それは是非善悪以前の、感情的な抵抗である。そして、感情というものは、意志の力よりも遙かに強烈なエネルギーを持つものである。敏腕な指導者が、時として失敗するのは、成果を速やかにあげようとするあまり、感情を無視してその強烈な抵抗に遭うからである。
 米沢藩の財政は、すでに絶望的な状態に追い込まれている。その実体が十分わかっているだけに、鷹山としては一刻も猶予はできず、直ちに改革を推進しなければならないという切迫感に襲われていた。しかし、ことを焦れば失敗するおそれが大きい。「物事急ニハ参ラザルモノニ御座候」という平州の教えは、鷹山にとって大きな訓戒であった。急を要することであればある程、慌てることは禁物である。

 威令が徹底しないでも焦らない 

 鷹山はもとより聡明な人である。平州のいうところをよく理解し、数日後に次のような反省を語っている。
 「よくよく考えてみたが、なるほど家臣たちが木綿を着用しないのも当たり前かもしれない。余自身が木綿を着たからといって、それだけではいくらの倹約にもなるものではない。それ程の倹約をしているというにも当たらないことは承知している。しかし、多年にわたって家中の者の食禄を借り上げ、難渋させていることは実に痛ましいことである。せめて藩主たるものが、木綿を身にまとい、朝夕に食事も減らして、下々と難渋をともにしてこそ、天道への申し訳にもなろうかと考えて実効しているのである。これまで余は、木綿を家には着ていたが、下着は絹のままであった。これでは、家臣も心服しなかったことであろう。これからは、下着もすべて木綿に替えることとしよう」
 この鷹山の誠意が浸透するにつれて、家臣の中にも、心から心服して鷹山の改革に一身をなげうとうと決心する者が現れてきた。

 増税の際、鷹山は領民に伏して詫びた 

 明和6年1月、鷹山が恐れていた事態が起こった。それは幕府からのお手伝い御普請が、米沢藩に命じられたのである。
 いつかは困った事態が訪れるであろう、そういう予想があれば、経営者はそれに対してあらかじめ備えをする。ところが備えの方は予定通りには進まない。そのうちに困難な事態の方が先に押し寄せてきてしまう。これに対してどうすればよいか。有効な手段などあるはずがない。最前の方法がなければ、次善、三善の策を、それもなければ、少なくとも最悪でない方法を取るよりほかにあるまい。 
 幕府の命令を拒否することはできない。しかし、鷹山には打つ手がなかった。普通の藩主であれば、領民に命令して特別の賦課金を徴収し、それを至極当然のことと考えたであろう。それをしないですむ方法はなかろうか。
 鷹山はおもだった家臣を集めて討議を重ねた。しかし、すでに商人たちからの借入金は多額にのぼり、返済不能の状況になっているのだから、この上の借り入れはできない。やむを得ぬ。鷹山は書面によって領民に訴えた。
「この度、思いがけず、西御丸のお手伝い御普請を申しつけられ、名誉なことではあるけれど、これ程までに藩が衰えた際であり、実に嘆かわしいことと言わざるをえない。いつかはこういうことがあるのは目に見えていたので、一昨年大倹約令を出し、一汁一菜、木綿着用を命じてきた。もとより、私は国家長久と安民のことを願っている。これ程までに衰えている人民を、わが子として養う身が、自分自身の栄耀を求めるわけがない。ただ、人民の苦しみを見て、自分もその苦しみをわがものにしようと、覚悟はきめているのだが、現状を見れば、私の苦しみなどは、人民のそれに比べれば十分の一にも当たらない。この上、どのような苦しみにも耐えていくつもりである。私は他家から名誉ある上杉家を相続して、位が高くなったことを光栄だと思っているので、せめてこの国を再建したい。このことを日夜忘れる隙もなく、心を苦しめている。そこへこのような申しつけを受けたことは、いずれはあることと覚悟していたとはいえ、いまさら途方に暮れるばかりである。
 このように衰えている人民に、どう頼んでこの国を護っていけばいいのだろうか。もとより、君主の権力によって命令すれば、たとえそれが非道な取り立てであっても、誰も背きはしないであろう。人民は謹んでそれに従うであろう。しかし、国の民はわが子である。わが子の物をむさぼり取り、子が泣くのを見て喜ぶ父が、この世にあるであろうか。
 この度のことは、国の危急である。上杉家が滅亡することのないよう、10万人の人民の力で、お家を立てる大忠節の時節である。もとより人民が立たずして、君主一人が立つということはありえない。君主は一代の存在であると覚悟しているが、お家の名字は永遠である。国中の力をあげてこれをもり立てていくより他にない。ここをよく考えて、お家のために忠節を尽くしてくれるよう伏して頼む‥‥ただ人民の憮育をこそしなければならない私が、このように人民を苦しめることは、君主としての甲斐がなく、面目ないことである」
 ここに見られるのは、鷹山の誠実さであり、領民を真のわが子と考えている慈愛の心である。にもかかわらず、彼はわが子にあえて苦しみを求めなければならなかった。結局は家臣・農民それぞれの収入に応じた賦課金を徴収せざるをえなかった鷹山の心は、悲痛のきわみだったことであろう。彼は自分の領民たちに対して「伏シテ頼ミ入リ候」と書いているのである。

 トップの姿勢を全員が見倣う 

 経営者に公私混同があってはならない。このことは、どんな経営者も十分わきまえているはずである。
 ところが、経営者といえども人間であり、人間はとかく誘惑に負けやすいものである。地位が確立され、権限が大きくなるにつれて、かつての謙虚さを忘れ、会社を自分個人の私物と錯覚しがちになる。
 会社が存立し得ているのは、たしかに経営者の才覚、手腕によるところが大きかろうが、それを支えているものは、社員全員の努力なのである。この点を誤解して、社用の車を使用に乗り回し、個人の仕事を社員に命じ、甚だしい場合には、家族の出費を会社の経費で落としたりする。
 このような状態で、社員の協力が得られるはずはない。社員は経営者の後ろ姿を常に見つめているものである。経営者は、その力量が大きくなればなるほど、公私の別を画然としなければならない。
 鷹山は、絶対の権力をもつ藩主であったが、公私混同どころではなかった。私費を切り詰めて、少しでも藩の財政を助けようと、誠心誠意つとめたのである。このようなトップの姿は、いつかは必ず配下に浸透していくものである。

 参姫への手紙――経営者家族の心得 

 ここで最後に、上杉鷹山が参姫に送った書面を紹介しておこう。参姫は11代藩主治広の長女で、20歳の時に、のちに12代藩主となる斉定と結婚するため江戸へ出発した。これはその時の手紙である。鷹山はこの中で、藩主の妻たるべきものの心得を懇切に説いている。
 以下はその全文を現代語に改めながら綴っていく。

 人は3つのことによって、成育するものである。父母によって生まれ、師によって教えられ、君によって養われるのである。これはすべて深い恩なのだが、その中で最も深く尊いのは父母の恩である。これは山よりも高く、海よりも深いものであって、これに報いることはとてもできないが、せめてその万分の一だけでもと、心の及ぶだけ、力の届くだけを尽くし、努めることを孝行という。
 その仕方にはいろいろあるが、結局は、この身が天地の間に生まれたのは父母の高恩であり、この身は父母の遺体であることを常に忘れず、真実より父母をいとおしみ、大切にする心に少しの偽りもないことが、その根本である。ここに誠実さがあれば実際に多少の手違いがあっても、心が届かぬということはないものである。
 このことは、自分はとても徳がないから行き届きません、と遠慮すべきではない。その気になって、できる限りのことを十分に努めるべきである。そうしておれば、やがては徳も進み、相手に心が達するものである。あらん限りの力をもって尽くされたい。 
 男女の別は人の道において、大きな意義のあるところである。男は外に向かって外事をし、女は内にあって、内事を治めるものである。国を治め、天下の政を行うといえば、大変なことのように思われるであろうが、天下の本は国であり、国も本は家である。家がよくととのえられるためには、一家の男女の行いが正しいことがその根本となる。根本が乱れて、末が治まることはありえない。
 普通に考えれば、婦人は政治には関係がないと思われるであろうが、政治の本は一家の中から起こることであり、身を修め徳を積み、夫は妻の天であって、この天にそむいてはならない。これを常に心に銘記して恭敬を忘れず、夫に従順であれば、やがては政事をたすけることになるものである。
 あなたはまだ稚いので、人々から程遠い奥向きで徳を積んでみても、その影響が一国に及ぶはずがないと思われるであろう。しかし、感通とは妙なもので、人に知られず身を修めていると、いつかはそれが知られて、効果が大いに表れることは疑いのないところである。 
 『鶴九皐(こう)に泣いて声天に聞こゆ』と詩経に書かれているのはこのことである。奥向きで正しく徳のある行いをしておれば、一国の賢夫人と仰がれるようになる。そうなれば、あなたの行いによって人々が感化されないはずがない。誠があれば、それは決して隠れたままにはならない。ひたすら努めに努められよ。
 年が若いので、時折美しい着物を着たいと思われることもあるだろう。それも人情ではあるが、少しでもそんなことに心を動かして、これまでの質素な習慣を失うことのないよう、『終り有る鮮(すくな)し』の戒めを守られるべきである。そうすれば、いつまでも従来の質素な習慣は続けられるであろう。そして、養蚕女工のことを思い、一方では和歌や歌書などを勉強されたい。しかし、ただ物知りになったり、歌人になったりしようなどとは考えるべきではない。学問は元来、自分の身を修める道を知るためのものである。昔のことを学んで、それを今日のことに当てはめ、善いことは自分のものとし、悪いことは自分の戒めとされよ。和歌を学べば、物の哀れを深く知るようになり、月花に対して感興を深くし、自然に情操を高めることとなるであろう。
 くれぐれも両親への孝養を尽くし、その心を安んじるとともに、夫に対しては従順であり、貞静の徳を積み、夫婦睦まじく、家を繁栄させて、わが国の賢夫人と仰がれるようになってもらいたい。出発に際して、末永く祝うとともに、婦徳を望む祖父の心中を汲み取られよ。他へこそは行かないが、今日より後、いつ会えるかわからないので、名残惜しく思う。
 武蔵野の江戸なる館に赴きたまうはなむけに―

  春を得て花すり衣重ぬとも
       わが故郷の寒さ忘るな


 
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