軽薄なテレビ番組で汚染された「衆愚国家」 日本がたどるカルタゴへの道 |
落合信彦 SAPIO 2007年5月9日号
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軽薄なテレビによって国がバラエティ化している 「責任ある新聞には、責任ある読者がつかなければならない」 こう語ったのはニューヨーク・タイムズのオーナーであったザルツバーガーである。 作り手だけではない、受け手側と両方が良識ある存在になってこそ、信頼に足るメディアとしての地位が保たれるというわけだが、いまの日本のテレビ界には、まさにこの警句が当てはまる。 関西テレビに端を発した情報番組のねつ造はいまや各局に飛び火しようとしている。その影響で、番組で取り上げた健康法や食品に猫も杓子もが飛びついたあの馬鹿げたブームは、すっかり消え失せてしまった。 わたしに言わせれば、テレビがつくる流行にすぐに感化され、納豆を買うためだけに行列をつくるような浅はかな視聴者にこそ問題がある。良識なき番組には、良識なき視聴者がつくということである。 しかし、テレビの影響は一頃とは比べ物にならないくらい大きくなってしまった。 ところが、テレビ局は、その影響力が持つ潜在的、かつポジティヴな力の100分の1も出していないのである。スキャンダルを流して視聴者の覗き見興味をくすぐる。意味のない料理番組のオンパレード。気の抜けた報道番組。本当に重要なコントロバーシャル(論争的)なテーマは一切なし。しかも、一部のニュース番組では、報道と情報、娯楽(バラエティ)の敷居が消えてしまった。タレントやスポーツ選手が経済問題や国際政治を語り、その日、新聞を読んできただけのような知識を恥ずかしげもなく披露する。ニュースの裏側やそこに至った歴史的背景を読み解くプロフェッショナルがいなくなった。アマチュアの毒にも薬にもならない、ただ耳障りのいい言葉だけが、重用されている。 スポーツ番組しかり。いつからか解説者の席にはお笑いタレントやアイドルが座るようになった。バレーボールやフィギュアスケートを観て、ただはしゃいでいるだけの解説に何の意味があるのか。ブロ競技の奥深さや面白さを解説してくれる番組が少なくなった。 テレビが国民を啓蒙し、知的刺激を与えるどころかバカにするイディオット(白痴)ボックスと化してしまっている。かつて評論家の大宅壮一氏が、テレビはいずれ一億総白痴化の道具となるだろうと言ったが、その予言は着々と現実のものになろうとしている。 つまりは、このような低俗なテレピ番組が氾濫すればするほど、軽薄で深慮に欠けた国民が増えるということだ。 所詮、視聴者もアマチュア。専門家の難解な言葉など理解できないのだから必要とされていない。ならば、娯楽(バラエティ)に徹したほうがましだということなのだろう。無知がテレビをつくり、テレビがまた無知を作っている。 いまの日本を一言で言えば、テレビによって娯楽化されていく「漫画国家」ということだろうか。 経済観念優先のテレビがもたらす亡国の危機 プロフェッショナル不在について言えぱ、関西テレビの一件で問題視された下請け制度という無責任体質にもつながる。自分たちが現場に行って、取材をしていないのだから、番組のチェックも曖昧なものになるのは当然である。 一番上(放送局)に権限も金も搾取された下請けが番組を制作しているのだから、現場の士気も上がるわけがない。結果として、当然モラルや仕事に対する情熱・誇りも崩壊する。 もちろん、下請け任せにしているのは、プロ意識の欠如からだけではない。それより、より安くという経済的な理由のほうが大きいだろう。ほとんどの制作を自局でやろうとすれば、それだけ人員が必要になる。当然、人件費や社会保険など大変な金がかかる。 要は、経済原理がすべてに優先してしまっているのである。これではゼネコンの下請け、孫請けシステムとまったく同じ。文化を担うと考えられている放送局が、ゼネコンと同じ経済論理で動いているとはあまりに情けない。 放送局の株は、一定の比率を超えて外国人が持ってはいけないことになっている。なぜか? 社会的影響力と責任が大きいからだ。普通のビジネスではないのだ。時には経済的犠牲に甘んじなければならない時もある。 ところがいまの日本は、放送界も含めて一事が万事、経済原理で動いている。 経済観念だけを優先した国家が行きつく先は歴史が教えてくれている。 紀元前の昔、北アフリカ沿岸に栄えた小国、カルタゴは、軍事大国ローマとの戦いに敗れた。その後、多額の賠償金の支払いと軍備を専守防衛だけに限るという講和条約のもと、ローマ帝国との安全保障を結ぶ。そして、経済活動だけに専念し、やがて奇跡の復興を成し遂げる。しかし、その繁栄がローマを凌ぐほどになると、ローマは世界の富が全てカルタゴに集中してしまうことを恐れ、カルタゴに無理難題を押しつけ宣戦布告、ついには地球上から抹殺してしまう。 カルタゴは繁栄の間、ローマ人が敬意を払うような文化もつくらず(すでにローマの属国となっていたギリシアはそのヘレニズム文明に対する敬意によって安泰だった)、十分な軍事力も持とうとせず、また、外交の稚拙さゆえ友好国家を作ることもなかった。ローマ市民が、カルタゴの繁栄に対して嫉妬や苛立ちに満ち溢れていたことにも気づかなかった。 経済活動だけを優先し、すべてを経済理論で考え、世界から取り残されたカルタゴは、ある意昧いまの日本の姿と重なる。 大戦前のイギリス国民しかり、このカルタゴの例しかり、周囲で起きていることに対する関心と深慮を失ったことによって最悪の事態を招くことになった。いま日本では、そのような国民がテレビのバラエティ化によって、増え続けている。これは、国家存亡に関わる問題と言っても過言ではない。 |
★なわ・ふみひとのコメント★ |
テレビが今日の日本の国の乱れを助長していることにはどなたも異論はないと思います。しかし、このことが「陰の超国家権力」による“愚民化計画”の一環であることをご存じの方はまだ少ないかも知れません。じつはこれこそ俗に言う「3S」つまり「セックス、スポーツ、スクリーン(当初は映画。後にそれに優るテレビが発明された)」の3つの「S」で人類を愚民化し、政治や国家体制といった重要なテーマについての関心をそらし、また思考する能力を奪ってしまうという壮大な計画に基づいているのです。すでに世界中の主たる報道機関はお金の力で完全に“陰の超国家権力”の支配下にあると言われていますから、この傾向はさらに強まることでしょう。
落合氏は「愚民化が進む日本は、やがてカルタゴと同じ滅亡の道をたどるだろう」と警告していますが、私も、もはやこの流れにブレーキをかけることは不可能だと思っています。決して悲観的に見ているわけではありませんが、終末の滝壺に向かって時間は流れを加速しているのです。 |
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