[戻る] 
Browse  
 
 小食健康法
杉尾 敏明・著 創元社
 

 少食は四百兆の人体細胞へも愛の行為となる


 少食によって完全に消化吸収された各種の栄養素が、四百兆ともいわれる人体細胞に供給されることにより、それぞれの細胞組織は生き生きと働き、百パーセントその生命力を発揮することができるでしょう。
 ところがもし、過食してしまい、おびただしい栄養物が体内に吸収されると、各臓器はこれらの剰余栄養物の処理に追われて過労に陥ってしまいます。その結果、外へ向かって発揮されるべき生命力を、過剰栄養分の処理に使わなければならなくなり、大変なマイナスとなってしまいます。
 それでもなお完全に処理できず、血液は汚濁されたまま循環し、全身の細胞にそれが供給されるのですから、各細胞にとっては実に迷惑なことになります。こんな無慈悲な行為はありません。
 ですから、少食によって全身の細胞に清浄な血液を供給してやり、各細胞に本来の働きをフルに発揮できるようにしてやることが立派な愛の行為であると思います。
 

 
常識をくつがえす少食の実際

 私はこの四十年、食事療法の研究に没頭してまいりましたが、その中で、食事の質の問題もさることながら、量の問題について、実にいろいろな苦労をしてきました。いったい私たちは、1日にどれだけ食べたらよいのかという問題であります。(略)
 「現代栄養学」に大きな誤りがあることを私の体験から、また数多くの臨床例から知ったからこそ悩んできたわけです。そして、だんだんと研究を進めるにつれてわかってきたことは、腹八分ではまだ過食ではないかということです。健康法として人におすすめしたいのはむしろ腹七分、腹六分が理想ではないかという、実に厳しい量に落ち着いてまいりました。
 具体的な量として申し上げると、1日千カロリーそこそこの少食ということになるでしょう。

 
病気のおかげ

 病気をすることは、考えようによってはありがたいものである。病気をすると自分より不幸なものはないと思いがちであるが、考えてみれば病気をしたおかげで、今まで分からなかった感謝の気持ちや健康というものへの本当のあり方というものも分からせてもらえる。その意味では、若いときに大きな病気を与えられた方が、かえっていいのではないかと考える。

 自然治癒力〜病気は本人が治すもの

 ガンジーも次のように述べているが、東洋的な医学観として甲田氏とも共通しており、興味深い。
 「ごくささいな病気をしても医者のところに行くのが習慣になっています。普通の医者が間に合わないところでは、ニセ医者に相談しています。医療がなければ病気は治らないものだという致命的な妄想にとりつかれて苦労しています。これが人類に対して、他のどんな悪よりも大きな悪影響を及ぼしてきたのです」
 「もちろん、病気になれば治療しなくてはなりません。しかし、医学が治すものではないのです。薬は無用であるばかりでなく、時には害になるものです。病人が薬を飲むのは、家の中にごみがいっぱいになっても掃除をせずに、ただ被い隠してしまおうとするようなもので馬鹿げたことなのです。被い隠せば隠すほど、ごみは腐敗していきます。人体についても同じでしょう。病気や不調はからだのどこかに汚物が蓄積していることを知らせる自然からの警告なのです。そして、医薬の手を借りてその汚物を被い隠すのではなく、自然の働きに任せて汚物を除去するのが知恵というものでしょう。医薬に頼るということは、自然の働きを二重に困難にしていることなります」
 
 
 [TOP]