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 「死ぬ瞬間」と死後の生
E・キュープラー・ロス 鈴木晶・訳
中公文庫
 
 
 死ほど大事なことはない

 
マイダネク
 最後にポーランドのマイダネクにたどり着きました。戦争中に強制収容所のあった所です。私はそこで、列車何台分もの、殺された子どもたちがはいていた靴の山や、やはり列車何台分もの、人間の髪の毛を見ました。そうしたことを本で読むのと、実際にそこへ行って人間焼却炉をこの目で見て、この鼻で異臭をかぐのとは、天地ほどの差があります。
 そのとき私は、嵐のない国で育った十九歳の娘でした。私の国には人種問題も貧困もなく、七百六十年間、戦争を経験していません。私は人生が何たるかを知りませんでした。マイダネクに行ったとき、突然、人生のありとあらゆる嵐が一度に洪水のように私の身に押し寄せてきたのです。そういう経験をしてしまうと、人間はけっして元の人間にもどることはできません。私はその日に感謝しています。もしあの嵐がなかったら、私はいまこの仕事をしてはいないでしょう。
 私は自問しました。あなた方や私と同じ成人した男や女が、九十六万もの罪のない子どもを殺しながら、家に帰ると水痘にかかっている自分の子どもの心配をするなどということが、どうしてできるのか。
 それから私は、子どもたちがその人生の最後の夜を過ごした収容棟に行ってみました。とくに理由はありませんでしたが、たぶん、子どもたちがどんなふうに死と向き合ったのかを示すメッセージか手がかりが見つかるかもしれないと思ったのでしょう。収容棟の壁には、子どもたちが指のつめとか石やチョークの破片で刻んださまざまな絵が残っていました。いちばん多く目にとまったのは蝶の絵でした。
 私はその無数の蝶の絵をじっと眺めていました。私はまだ若くまるで無知でした。故郷から、両親から、家と学校という安全な場所から、無理やり引き離され、貨車に乗せられ、アウシュヴィッツやブッヘンヴァルトやマイダネクに運ばれてきた子どもたちが、どうして蝶を描いたのか、私にはわかりませんでした。その答えを見つけるのに四半世紀かかりました。 マイダネクは私の仕事の出発点でした。
 マイダネクで、そこから去ろうとしない一人のユダヤ人少女と出会いました。彼女がどうしてそこにとどまっているのか、はじめ、私には理解できませんでしたが、彼女はその収容所のガス室で、祖父母を、両親を、そして兄弟姉妹全員を殺されたのでした。ガス室いっぱいに人が詰め込まれたあげく、もうそれ以上一人も入れることができなくなり、そのおかげで彼女は助かったのでした。
 その話を聞いて背筋が寒くなりました。私は思わず彼女にたずねました。「あなた、いったいここで何をしてるの。あんなに非道なことがおこなわれたこんな場所で」。彼女はこう答えました。「強制収容所にいた最後の数週間、私はこう誓ったの。かならず生き延びて、ナチスと強制収容所の恐ろしさを世界中の人びとに訴えようって。やがて解放軍がやってきて、その人たちを見たとき、私はこう思った。『いや、いけない。もしそんなことをしたら、ヒットラーと同じことになってしまう』。だって、私がしようとしていたことは、マイナスの感情と憎しみの種を世界中にもっと蒔くこと以外の何物でもないでしょ。私は考えたの。
人は背負いきれないほどの重荷を課されることはない。私たちはけっしてひとりぼっちじゃない。マイダネクの悲劇と悪夢をちゃんと見極めれば、それを過去のものにすることができるのだ。そうだ、このことを心から信じることさえできれば、そして、誰か一人でもいいから、その人の心から悪感情や憎しみや復讐心を取り除いて、その人を、人を愛し、人に奉仕し、人の世話をするような人間に変えることができたとしたら、それはとてもやりがいのあることだし、私も生きていたかいがある。そんなふうに考えたの」。
 
マイナス感情はもっぱらマイナス感情を養分にして成長し、やがてはガンのように繁殖していくものです。でも私たちには、自分の身に起きたことを、悲しくて恐ろしい出来事としてそっくり受け入れるという選択肢もあります。それはすでに通りすぎてしまった過去のものであり、自分にはもう変えられないのだと納得する道です。マイダネクで出会った少女はその選択肢を選んだのです。
 でも、彼女に変えられることもあります。それは彼女がこれからしようとすること、つまり、すでに起きてしまったことから何を生み出すかということです。それで彼女は、眺めも臭いも恐ろしいその場所にとどまる決心をしたのです。
 私は彼女といっしょに収容棟に行き、蝶の絵を見つけました。私は彼女といろいろなことを話しました。生や死についてあれこれ議論しました。彼女は私にたずねました。「ねえ、エリザベス、誰の心のなかにもヒットラーがいる。そう思わない?」。私も彼女も人生のごく早い時期にさとったのです。人を愛し人に奉仕する人間になれるかどうかは、自分自身の悪い面、悪い方へ向かう可能性を直視できるかどうかにかかっているのだということを。私たちの心は、マザー・テレサになる可能性だって秘めているのですから。
 
 
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