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 会津武士道
「ならぬことはならぬ」の教え 
星亮一・著  青春出版社
 
 
 遊びの什

 会津藩の子供は6歳から勉強を始める。
 午前中は近所の寺子屋で論語や大学などの素読を習い、いったん家に戻り、午後、1カ所に集まって、組の仲間と遊ぶのである。1人で遊ぶことは禁止だった。孤独な少年は皆無だった。
 仲間は10人1組を意味する「什(じゅう)」と呼ばれ、年長者が什長に選ばれた。年長者が複数の場合は人柄や統率力で什長が選ばれた。
 遊びの集会場は什の家が交替で務めた。
 1歳違いまでは呼び捨て仲間といって、互いに名前を呼び捨てにすることができた。什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和した。

一、年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。
一、年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言をいうてはなりませぬ。
一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
一、弱い者をいじめてはなりませぬ。
一、戸外で物を食べてはなりませぬ。
一、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
 そして最後に、「ならぬことはならぬものです」と唱和した。

 この意味は重大だった。駄目なことは駄目だという厳しい掟だった。6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快だった。
 遊びの什は各家が交替で子供たちの面倒をみたが、菓子や果物などの間食を与えることはなかった。夏ならば水、冬はお湯と決まっていて、そのほかは一切、出さなかった。今日ならば様相はまったく違うだろう。団地の町内会が子供を交替で預かるとする。家によって対応はまちまちになるだろうが、おやつにケーキが出るかもしれないし、アイスクリームが出るかもしれない。
 家によって格差が出てくる。しかし会津藩の場合は、全員平等である。これはきわめていい方法だった。間食はしないので、夕ご飯も美味しく食べることができた。唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊んだ。普通の子供と特に変わりはなく、駆けっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、なんでもあった。変わったものに、「気根くらべ」というのがあった。お互いに耳を引っ張り、あるいは手をねじり、または噛みついて、先に「痛い」といった方が負けになった。これは我慢のゲームだった。
 年少組のリーダーである什長は、普通は8歳の子供だった。
 このようにして6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、仲間意識が芽生え、年長者への配慮、年下の子供に対する気配りも身についた。喧嘩の強い子供、賢い子供、人を引きつける子供、さまざまなタイプの子供がいて、それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えた。当然、子供の間には喧嘩や口論、掟を破ることも多々あった。

 厳しい罰則

 その場合、罰則が課せられた。罰則は3つあった。

1、無念、軽い罰則は「無念」だった。
  「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、子供が皆に向かって「無念でありました」 と、お辞儀をして詫びた。

2、竹箆(しっぺ)、これは手の甲と、手の平のどちらかをびしっと叩く体罰である。手の 平の方が重かった。これも什長や年長者が決めた。

3、絶交、「派切る」と称した。もっとも重い罰だった。これは盗みとか刀を持ち出すとか 武士のあるまじき行為の場合に適用された。一度、適用されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、詫びをいれなければ、解除されなかった。これはひど く重罪で、子供の心を傷つけることもあり、滅多になかった。派切ることは子供では なく最終的には大人が決めた。何事によらず年長者のいうことには絶対服従だっ たのだ。

 罰則はたとえ門閥の子供でも平等で、家老の嫡男であろうが、10石2人扶持の次三男であっても権利は同じだった。門閥の子供はここで仲間の大事さに目覚め、門閥以外の子供は無批判で上士に盲従する卑屈な根性を改めることができた。
 「ならぬことはならぬ」という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在した。
 会津藩の子供たちは、こうして秩序を学び、服従、制裁など武士道の習練を積んでいった。教育がいかに大事かがよくわかる。それをいかに手間隙かけて、大人たちが行なっていたかである。家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たった。
 なぜこれほどまでに、きめ細かに教育したのか。その理由は幼児教育の重要性だった。当時は士農工商の階級社会である。武士は農工商の模範でなければならなかった。武士はそれだけではない。一朝、事あるときは、君主のために命を投げ出さなければならないのだ。その覚悟が求められた。もっとも恥ずべきことは弁解や責任逃れのいい訳だった。
 
 
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