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 日本人として
これだけは知っておきたいこと
中西輝政・著  PHP新書
 
 
 連合国軍総司令部(GHQ)による歴史教育の否定

 ‥‥とくに戦後日本人に重大な影響をおよぼしたのが、「歴史教育の全面否定」でした。
  要するに、「学校で歴史は教えるな」ということです。ところが、そういう指令を出した当の連合国側、つまりアメリカの学校では今でも歴史の授業を大変に重んじており、週に5時間も6時間も教えるのが当たり前。教科書はものすごく分厚い。つまり彼らは、自分たちの国の歴史はことのほか、大切にしながら、日本の歴史は大きく否定し、自分たちがつくり直した「別の歴史」を日本人に教え込まないかぎり、日本は再び国力を回復し「アメリカの脅威」となる、と見たわけです。
 「でも、実際には、戦後も義務教育で歴史を学ばせていたではないですか」という反論をされる方がいらっしゃるかもしれません。でも、よく思い出してみてください。それは「歴史」という科目の授業でしたか? 違います。今でもそうですが、「社会科」という科目の一部として教わったにすぎません。実は、戦前の小学校、中学校では現在の世界各国と同様、算数や国語と並んで、「歴史」という独立した教科がありました。ところが、『神道指令』以後、歴史は社会科の中で教えなさい、ということになってしまった。これは考えてみたら、おかしな話です。社会科というのは「現在の社会がどうなっているのか」を学ぶもので、歴史は別の範疇として学ばなければならない。どこの国もみなそうなっています。それなのに、日本だけ「社会科」という教科の中に歴史が組み込まれてしまった。これは、日本を「民主化」するためだったのです。
 社会科という科目は、戦後昭和22年(1947年)に新設された科目で、その目的とするところはきわめて明白でした。それは、社会にとって「よき市民」を育てることです。あくまで「国民」ではなく「市民」です。そしてもちろん、「よき市民」とは、占領軍にとって、アメリカにとっての「よき市民」。つまり、アメリカ流の「民主主義」や「個人主義」といった戦後イデオロギーを、日本の子どもたちに徹底的に注入するものとして誕生した教科、それが「社会科」なのです。またそれは、独立した「歴史」という教科を廃止させることによって、占領軍が植えつけた戦後イデオロギーの枠内で許されるもののみを「歴史」と称して教えることを意味したのです。これが、いまにいたるも続いているわけです。これでは、歴史を見る眼が歪まない方が不思議というものです。

 
占領下日本の心情

 「一国の歴史を否定するようなデタラメな占領政策に、大人たちは反対しなかったのか」
 いまの若い人たちは、こう問いかけてくるかもしれません。
 もちろん、こういう占領軍の政策を見て、ふつうの日本人、当時30歳を過ぎた日本人ならみな「これはおかしい」と思ったはずです。でも、口には出せなかった。有り体にいうなら、生活がかかっていたからです。相手は占領軍ですから、その最重要政策である「歴史否定という政策」に文句をつければ公職追放になりました。実際に、20万人もの人が公職追放になりました。これは当時まともにものが見えた日本人のほとんど大半といってもよいでしょう。しかも、それは他の日本人にとっても大きな威嚇になりました。追放になると一切の公職につけなくなるから、物理的に生きていけないわけです。教師であれば教育現場から追われる。公務員であれば職を失う。国会議員、地方議員にもなれないし、新聞や雑誌、本を発行することもできません。場合によっては刑事罰の対象にさえなりかねないのが、「歴史問題」でした。だから、みんな沈黙せざるをえなかったのです。この恐怖心が、いまでもどこかに残っているから歴史教育については「さわらぬ神に……」という気分が残っているのです。
 それに、「歴史問題などに拘泥すると、日本の復興を遅らせることになる。それより、いまはあっさり負けを認めて何でも受け入れ、占領が終わったら、後で変えればいい。とりあえず豊かになって、その後でしっかりとしたものをまたつくればいい」と考える人たちも多かった。とにかく、あの辛かった戦争は終わったのです。これからは「まず食べ物、そしてとにかく豊かになりたい」と考えたのでした。ある意味で、これは、自然な人間の欲求、人間の本質からいって、やむをえない対応だった、と私は思います。
 そして、さらに言うなら、心底、戦前の歴史を全否定したい、と思った人たちも一部に存在しました。それは、戦前の大正時代から共産主義や社会主義の思想にかぶれ信奉していたインテリやジャーナリスト、左翼の政治家たちです。彼らは積極的に占領軍と協力して、要求される「教育改革」や「歴史否定」政策の実現に邁進しました。
 そもそも歴史の評価というものは、時代によってめまぐるしく「善玉・悪玉」が入れ替わるものです。私は、近代には「歴史観は60〜70年周期で大変動する」という持論を有していますが、ヨーロッパ近代を持ち出すまでもなく、まずお隣の中国などでは、古代から、王朝が交代するごとに前王朝が「悪玉扱い」されてきました。歴史には、現体制を正当化するためのもの、という側面が多分にあるからです。そしてそれは、歴史を自由に記述することが許されている国でも、起こることなのです。なぜなら、歴史とは、無意識に現状を出発点にして振り返るものだからです。
 戦後の日本でいえば、なんといっても、戦争であれだけの人命、財産を失ってしまった。敗戦直後、国民の圧倒的大多数が「戦争はもうこりごり」と思ったことは確かです。300万の日本人が命を落としているわけですし。おまけに、その結果は敗戦。それも未曾有の敗戦、日本の歴史始まって以来の敗戦で、まさに有史以来はじめて外国に占領されてしまったのですから。これでは「いままでのことは全部間違いだ」と全否定したくなっても無理はありません。それどころか、「これまでの思想の正反対をすれば正しいんだ」という傾向すら生まれました。あの敗戦と占領は、それほど強い「負の情念」「全否定の衝動」を引き起こしたのです。

   ★なわ・ふみひとのコメント★
 
「戦後、日本人はどのようにして洗脳されたのか」あるいは「洗脳されざるを得なかったのか」がよくわかる本です。そしていま、その洗脳された大人たちが作りあげた戦後の社会の中で、戦後世代が正しい日本の歴史を知る機会は失われてしまいました。「洗脳された日本人が、歪曲された日本の歴史を伝えていく」という負の拡大再生産が続いているからです。著者のような歴史観を持ち、それを伝え続けている人物も非常に少なくなっています。この本はぜひ多くの日本人に読んでいただきたいと思います。

 
 
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