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 戦後六十年の大ウソ
仕掛けられた国家衰亡の罠
前野徹・著  徳間書店
 
 
 大東亜戦争は「自存自衛」の戦いであった

 
日本は8千万に近い膨大な人口を抱え、それが4つの島にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。
 潜在的に、日本の擁する労働力は、量的にも質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けているときよりも、働き、生産しているときのほうがより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。
 これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。
 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを、彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。


 これは、日本が大東亜戦争に突入せざるを得なかった事情について、あるアメリカ人が語った言葉である。「安全保障」は原文にある「security」の訳だが、アメリカでは基本的に「national security(国家の安全保障)」の意味でつかわれており、内容的には「国家の自存の確保、国家の自衛」と解していい。
 したがって、「大東亜戦争は、資源のない日本が、諸外国からの資源供給を断たれたことにより、国の自存と自衛のために行なった戦争であった」というのがその要旨だ。
 この発言を行なったのは、歴史の真実を知る、良識派のアメリカ人歴史学者──ではない。何を隠そう、これはあのマッカーサー元帥その人の言葉なのである。それは昭和26年(1951年)5月3日、場所はアメリカの上院、軍事・外交合同委員会聴聞会での発言であった。
 したがって、これは記者団への談話でも、講演会での演説でもない。バイブルに手を載せ、神に真実を述べることを宣誓したあと、聴聞会に出席した委員に対して行なった「証言」なのである。それだけに、この発言の内容は重い。
 ではなぜ、マッカーサーは、自らが東京裁判を通じて「侵略戦争」と規定し、断罪した大東亜戦争を、その2年半後に「自存自衛の戦争」だったと、自らの考えを180度も転換したのか。
 それは、彼が朝鮮戦争において、まさに「開戦に進まざるを得なかった日本の立場」に、自分自身が立たされたからにほかならない。そのときマッカーサーは、「歴史の真実」に真正面から向き合ったのである。

 
戦前の日本と同じ立場に立たされたマッカーサーの告白

 戦後、北朝鮮にはソ連から「金日成」と名のる男が送り込まれた。ただし、この男は大東亜戦争当時に抗日戦士として勇名を馳せていた指導者・全日成その人ではなく、ソ連の野望を実現するための傀儡にすぎなかった(この論証については、成均館大学教授・故李命栄氏の『全日成は四人いた』成甲書房刊に詳しい)。
 いうまでもなく、ソ連の野望は飽くなき領土の拡大、不凍港を求めた南進にほかならない。その命を受け、全日成の軍隊が突如として「南侵」(南韓=韓国への軍事侵攻)を開始したのは、昭和25年(1950年)6月25日のことであった。このとき、GHQ最高司令官・マッカーサーは、北朝鮮軍に対抗する「国連軍」(実質的には米韓連合軍)の司令官兼務の命を受け、半島の戦線に赴いたのである。
 電撃的な南侵によって韓国軍と在韓米軍は総崩れとなり、一時は釜山近くまで後退したが、マッカーサー率いる国連軍が仁川上陸を敢行、これを機に形勢は逆転し、連合軍はじりじりと北朝鮮軍を北へと追いつめていった。
 マッカーサーの構想(極東戦略)は、北朝鮮軍を一気に中国国境の向こうに放逐し、朝鮮半島全体を「反共の砦」とすることだった。しかし、中国・人民解放軍(義勇軍)の参戦によって、その構想は崩れてしまったのである。
 いくら撃退しても、中国・北朝鮮軍はいったん退いたあと陣容を立て直し、再び怒濤のように押し寄せてくる。それは、満洲の地が彼らの兵站基地となっていたからだった。さらにその背後には、北朝鮮軍を操っているソ連が控え、人民解放軍の司令部たる共産中国が構えている。
 一進一退を繰り返すだけの膠着状態を打破するため、マッカーサーは中国の海上封鎖と満洲の拠点への爆撃、さらには蒋介石率いる国民党軍の戦線投入を立案した。しかし、こうした作戦を実施した場合、中ソとの全面戦争に発展しかねない。このことを懸念したアメリカ大統領・トルーマンは、マッカーサーの提案を却下。なおも作戦計画の実施に固執する彼を、一切の職務から解任して帰国させたのだった。
 アメリカに帰国したマッカーサーは、議会において「自分の作戦計画が統合参謀本部の承認を得ていた」と演説したため、作戦へのワシントンの関与と解任の正当性とをめぐって、上院での軍事・外交合同委員会聴聞会が開かれたのである。
 先に引用した彼の証言は、その席上でのものだった。「共産中国に対し海と空とから封鎖せよ、という貴官(マッカーサーを指す)の提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか」との質問に対し、彼は「そのとおりです」と答えたあと、先の証言を行なったのである。時にマッカーサー、71歳であった。

 
自ら「日本の戦争の正当性」を証言したマッカーサー

 日本から朝鮮半島に赴いたマッカーサーは、そのときはじめて、日本の視点から極東の情勢──日本が置かれた地政学的位置が見えたのだった。
 ソ連の脅威を前にして、朝鮮半島が日本にとっての最後の防衛線であったことを。そして、ソ連の兵站基地となる満洲を、是が非でも確保せねばならなかった戦略上の必要性を。さらに、自分が立てたのと同じ極東戦略に対して、朝鮮のかつての宗主国である中国が、いかに執拗な妨害作戦をとったかを、彼は実感したのである。
 そのような危うい情勢の中で、満洲になんとか地歩を固めた日本に対し、自国アメリカは無慈悲にも、その地からの撤退を要求したのだった。
 もちろんそれは、中国での権益を拡大しようとするアメリカの“国益”に相違ない。しかし、マッカーサーは気づいたのだろう。当時の日本にとっては、それが権益どころの話ではなかったことを。満洲からの撤退は、日本国の死命を制する要衝の放棄に直結する。当時の情勢において、そんな要求は、とても日本が従えるものでなかった、と。
 にもかかわらず、自国アメリカは、要求を受け入れない日本に対して、実質的な経済封鎖を実施した。それは資源のない日本の産業を、活動停止に追い込むことになる。ことに石油の禁輸は、大陸の生命線に布陣した日本軍の戦力を、ほとんど無力化することに等しい措置であった。
 戦略家であるマッカーサーは考えた。そんな状況に置かれたとき、自分ならどういう行動をとるか、と。その答えは、「当時の宗主国(イギリス、フランス、オランダ、アメリカなど)と一戦交えてでも、地理的に最も近い東南アジアに資源を求めるしかない」であったはずだ。自国の存亡を賭けた日本には、その選択肢しか残されていなかったことに、彼の理解はようやく届いたのだった。
 だからこそ、マッカーサーは聴聞会の委員に対して、「彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と証言したのである。つまり、大東亜戦争は、日本にとって「自存自衛のための戦争」だった、と。
 ここにおいてマッカーサーは、東京裁判で日本を「侵略国家」と裁断した自らの過ちに、はじめて気づいたのである。
 しかし、それはあまりにも遅い「気づき」であった。GHQの最高司令官として東京裁判を主導したとき、彼の脳裡には、自分をフィリピンから追放した日本への燃えるような復讐心と、その日本を骨抜きにする算段しかなかったのだ。
 どれほどデタラメな裁判であろうと、マッカーサーは意に介することなく復讐を遂げるとともに、占領政策全般を通じて、日本の伝統文化と精神性を、完膚なきまでに解体し尽くしてしまった。

 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
マッカーサーは、日本の絶対権力者であった昭和天皇以上の権威と権力を持ってこの国を支配したのでしたが、朝鮮戦争の対処法を巡って時のアメリカ大統領トルーマンと対立し、解任されます。そのマッカーサーがアメリカ議会で「日本の戦争は自衛のためのものであった」と証言したことはよく知られた事実です。が、日本のマスコミはそのことをほとんど報じることはありませんでした。マッカーサーが解任されたあとも、GHQによる実質的な日本社会のコントロールは続けられていたからです。戦後の日本と日本人を“洗脳”したのがマッカーサー個人の判断ではなかったということを表しています。マッカーサーといえども、単なる“操り人形”でしかなかったのです。
  当時のギャラップ調査で、マッカーサーは人気のあるアメリカ人の第1位でした。次の大統領候補と目されていたのです。ところが、このときアメリカを裏から支配している権力者層の計画に逆らったことで、その芽が摘まれてしまいます。そのマッカーサーの首を切ったトルーマンも、やはり“操り人形”でしかありませんでした。世界を陰から支配している黒幕のグループは、かくも大きな力を有しているということです。
  日露戦争後、軍部が力を蓄えたことで、将来的に手強い相手になるかもしれない日本を戦争に引きずり込み、戦力である兵隊と兵器を徹底的に“処分”させたのが太平洋戦争だったのです。ここにご紹介したマッカーサーの証言からも、日本がアメリカ(を裏から支配する層)によって巧妙に戦争に引き込まれていったことがよくわかると思います。
 
 
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