明治政府の高度な外交戦略
日露戦争(1904〜1905)は、世界中の人々の度肝を抜くような20世紀初頭の大事件だった。近年では日露戦争の歴史的意義が語られることが少ない。それどころか、どうも戦後、「ソ連はわが祖国」というような発想の人物が日本の歴史学界、とくに教科書の執筆に幅を利かせたため、この戦争自体をよく知らない人が多くなった。しかし、この戦争は20世紀の幕開けとも言うべき超重大事件であったのだ。
歴史家でない伊藤正徳の『軍閥興亡史』と司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって日露戦争が語り継がれ、とくに後者が広汎な読者を獲得したのはうれしいことである。本当なら教科書で大きく扱うべきことなのだが。
日本がついにロシアとの開戦を決意したのは、日英同盟の成立による。
すでに満洲全土はロシアのものとなっている。彼らは、北清事変を口実に満洲に兵を進め、いっこうに撤兵するようすもない。このままでは、朝鮮が完全にロシアの支配下になる日も、いずれ遠からずやってくるであろう。そうなれば、日本は完全に窮地に陥ってしまう。
かくして日露戦争となるわけだが、とは言っても、日本政府の首脳もロシア相手に完勝できるなどとは考えてはいなかった。
ロシアと日本の国力の差は、いかんともしがたい。緒戦において日本は勝てるかもしれないが、長期戦となれば、国力に優るロシアのほうが絶対有利である。「ならば、少しでも日本が優勢になれば、ただちにロシアと講和を結び、少しでも有利な条件で戦争を終えるしかない」というのが、伊藤博文をはじめとする日本の指導者たちの結論であった。
だが、誰を講和条約の仲介者とすべきか。
イギリスは日本の同盟国であるから、講和の仲介者たりえない。フランスはロシアと軍事同盟を結んでいるから問題外である。またドイツ外交は権謀を好むから、信用できないところがある。そこで浮上したのがアメリカであった。
アメリカは、日露間の問題については中立的な立場にあるし、また不平等条約の改正にも前向きの姿勢を示すなど、日本に理解を示している。アメリカを味方に付ければ、日本に不利にならないよう講和を進めることは十分可能であろう。
そこで、日本は開戦を決意すると同時に、アメリカに特使として当時の司法大臣、金子堅太郎を送ることにした。金子は、アメリカのルーズベルト大統領とハーバード大学の同窓であったから、特使として最適であった。
それにしても、戦争が始まる前から、和平のための特使を友好的な中立国に送り、さらにアメリカの世論を日本に有利なように導こうとした明治政府の外交センスの高さは、いくら評価してもしきれるものでない。「いつ、どのようにして戦争を終わらせるか」などということをまったく考えずに、シナやアメリカ相手の戦争に突入した昭和の政府や軍部を考えると、天と地ほどの違いがある。
なぜ、そんな高度な外交戦略がとれたかと言えば、日露戦争当時は「たとえ憲法に書かれてなくとも」、元老から指名を受けた首相や内閣には権威があった。だからロシアと戦争を始めるとなると、政府が金子を特使に送るという決断もできたのである。
ところが昭和に入り、元老が死に絶えてしまうと、それは不可能になった。憲法が文字どおり解釈された結果、日本は「首相や内閣のない国」になってしまった。軍人は戦争を始めることはできても、終わらせることはできない。それは政治家の仕事だからある。
日本海海戦の完全勝利
では実際の戦闘において、圧倒的に強いと思われたロシアに対して、日本が勝てたのはなぜであろうか。これは日本史のみならず、世界史においてもきわめて重要な出来事であるので、簡単に述べておきたいと思う。
世界中はロシアを相手に日本が戦争しても問題になるまいと思った。当時のロシアは世界最大の陸軍と、イギリスに次ぐ海軍を持つ巨大な軍事国家であった。ナポレオンはロシアに裸同然に追い返され、ビスマルク=モルトケが率いるドイツ帝国ですら、ロシアとの戦争を回避しつづけたのである。
このようなロシア帝国と、封建時代からぽっと出たばかりの日本が全面戦争をしたのである。正気の沙汰ではない。
しかし、日本は陸に海に勝ちつづけた。では、どうして日本は勝てたのか。
よく言われてきたのは、日本側の指揮官が優秀であり、兵士が勇敢であったということであった。これらの指摘は、事実としては間違いではない。
だが、指揮官が優秀で兵士が勇敢でありさえすれば勝てるというほど、近代戦は甘くはない。それで勝てるぐらいなら、アメリカの西部開拓史において、そうやすやすとインディアンは負けなかったであろう。戦士としてのアメリカ・インディアンの勇猛果敢さを認めない人はいまい。しかし、インディアンは潰されたのである。
日本海海戦で、日本海軍はロシアのバルチック艦隊相手に海戦史上、類のないパーフェクト勝利を収めた。また、陸戦においても、兵力・物量において優勢なロシア陸軍に対して死闘を繰り広げ、最後の奉天大会戦では、ついにロシア軍を敗走させしめた。
このような勝利を収めえたのは、もちろん運やツキだけのおかげであるはずがない。また、このときの兵士たちが実に勇敢に戦ったのは事実だが、勇敢だからといって、それだけで勝てる相手でもない。
では、日本が勝利を収めた要因は何であったか。
やはり何と言っても、当時の日本軍が画期的な“新技術”を導入していたことが大きいと言わざるをえない。海軍においては、下瀬火薬(後述)を用いた新砲弾。陸軍においては機関銃の導入。この二つが、日露戦争の帰趨を決めるのに役立ったのである。これらはいずれも、戦争の概念を一変させるほどの力を持っていた新兵器であった。
まず海軍の戦力においては、日露双方を比較すれば、ほぼ同等と言うべきであろう。戦闘艦としては、ロシア艦隊は戦艦8、巡洋艦10、駆逐艦9隻である。これに対して、日本艦隊は戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦21隻である。当初の海軍の総排水量トン数は、ロシアは日本のちょうど倍である。戦艦の数、そして大砲の門数もロシアが日本を上回っている。
ただ日本が有利であったのは、イギリスからの優れた新造艦を有していたという点であった。当時の日本では商船は造れても、まだ軍艦の造船までは技術的に無理であったため、当時の造船先進国であったイギリスから購入していたのである。それに近海のために、日本の駆逐艦や水雷艇のような小型の船も活躍できた。
しかし、この日本側のプラス面を勘定に入れても、バルト海から回航してきた、かのバルチック艦隊相手では、せいぜいドローン・ゲームが関の山であり、双方ともかなり被害を受けるというのが戦前の予想であった。勝っても六分四分ぐらいが常識の線であろう。
ところが実際の日本海海戦において、日本の軍艦は一隻も沈まず、バルチック艦隊はほとんど全部が沈むか、捕獲されたのだった。撃沈された戦艦6、巡洋艦5、駆逐艦5、他5、捕獲した戦艦2、駆逐艦1、他4という数字は圧倒的である。
ロシアの艦船でウラジオストクまで逃げおおせたのは、軍艦では損傷を受けた巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけというありさまであった。日本側の損害は、水雷艇が3隻沈んだのみであるが、これは沈められたのではなく、波をかぶっての転覆である。当日は「天気晴朗ナレドモ波高シ」であった。
まぎれもなく、日本側のパーフェクト・ゲームだった。このような完全勝利は海戦史上に類例がない。しかも、日本海海戦は当時までの人類最大の海戦であったのだから、その行方を見つめていた世界中の人々は、文字どおり仰天した。
★なわ・ふみひとのコメント★
超大国ロシアが南下し、満州から朝鮮までを支配下に収めようとしている情勢の下で、日本が大変な恐怖心に襲われたのは想像に難くありません。戦争の道しか残されていないと判断した時の政府のとった外交戦略の見事さと、当時の日本の技術力の高さが、本来なら圧倒的に負けると見られていた戦争を勝利に導いたのだ、と著者は述べています。そして、何よりも「有色人種が白人を相手に戦って勝った」ということが、コロンブスの新大陸発見以来の世界史的な大事件だったのです。偉大な先人たちが作った輝かしい日本の歴史として記憶にとどめておきたいと思います。
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