どのようにして戦いに敗れたのか
次に、第二の敗因として、日本の軍部が自己の力を計らず、敵の力を研究せず、ただ自己の精神力を過大評価して、これに慢心したことを挙げなければならない。これまた戦争の原因であるとともに敗北の原因になっております。日本の軍部がもう少し敵の力を研究しておったならば、最初から戦争にはならなかったであろうということは前述いたしましたが、既に戦争になってしまった後においても、この態度は少しも変わらず、依然として敵の力量を研究しないで一方的に日本の戦略ばかりを考えていたのです。
この敵の力を研究するという点において世界的に有名なのはイギリスの諜報網であります。第一次欧州戦の時にはノースクリフが長官となりまして、世界各国のすみずみまで、有名な諜報網を張りめぐらし、時々刻々の情報を手に取るがごとく集めて、これを作戦外交の資料となし、それに対する宣伝対策を適当に打っていったために、ヒトラーをして「第一次大戦はノースクリフの紙の弾丸のために敗れた」と嘆ぜしめたぐらいですが、今度の戦争においても実によく日本の情報がわかっていたらしい。これについては、驚くような実例がたくさんあるのです。
例えば日本で虎の子のように大事にしている石油のタンクを敵機が爆撃する場合に、チャンと本物の石油タンクばかりに爆弾を落として、せっかく偽装してずらりと並べてある水タンクのほうには一つも落とさないような事実もありましたし、また青梅地方にドラム缶に入れた、とっておきの石油を持っていったとき、それを一昨日の晩持ってくると、今日はもう完全に爆撃されたというようなこともありました。これなどはその近所に住んでいる日本人すら何も知らないで、爆撃されたあと初めて、ああ、あすこにドラム缶が来ていたのかと気がつくくらいで、そのスパイ網の巧妙な張り方はただもう驚くほかはないのです。
また、日本で初めて噴進式の飛行機を今年〔昭和20年〕の6月か7月頃に、小泉の中島飛行機の工場で完成したのですが、この時たった一日、数時間、格納庫から外に出しておいたところ、それをもうちゃんと写真に撮ってあり、今度の終戦後、米兵から「今年の何月何日にロケット機を完成しただろう。その時の写真がこれだ」と言って見せられた時には日本の関係者は全く度胆を抜かれたそうです。
また、九州の太刀洗あたりの基地に日本の飛行機が全部勢揃いして、南に飛んでいくことになっていた当時、その基地を見下ろすことのできる山の上に小さな神社がありまして、そこには神主と巫女がいたのですが、月に一遍ずつ、そこに下の村からお供え物があがっておりました。ある時、たまたま神主が留守のときに巫女がお供え物を受け取ったが、その上に饅頭が乗っているので、そっとその饅頭を取ったところ、その下から金貨がザラザラと出てきたのです。驚いた巫女は早速駐在の巡査に届け出たために、それからそれへと足が付いて調べた結果、驚くべきことにその神主がスパイで、奥の院の神社の地下室に短波の送信機を置いて、下の基地にいつ何機来て、どこに飛んでいったということを一々米英側に報告しておったということがわかったのであります。神主とスパイという対照が妙ですが、そういう類例は至るところにあり、日本の実情は先方にすっかりわかっていたのであります。
ところが反対に日本のほうはどうかというと、ちょうど日本でいう「キング」あたりに相当する「ライフ」というような大衆雑誌、それも数カ月遅れたものを中立国を介して手に入れて、アメリカではこんなことを考えているということを種にして戦争しているのですから、その勝負はもう初めからわかっていたというべきでしょう。
日本の諜報機関が何故こんなに無力であるかと申しますと、そういうトレーニングが平素からできていないということ、資金的な力が足りないということがその原因でありますが、根本的には相手方の事情を研究しなければ戦争ができないということに対する認識が足りないということに帰着するのです。
アメリカの諜報網はイギリスほど有名ではないけれども、今度終戦になってやって来たアメリカの兵隊に会ってみると、実に驚くべきほど日本の事情を知っていて、不勉強な日本の官僚はすっかり音をあげてしまった。米国においては、平素は日本語の研究機関などはたいしてなかったのですが、大東亜戦争になってから、さあ大変だというので、あらゆるところに日本語の研究所をつくりまして、あのむずかしい漢字を覚え、日本の中学校や女学校の教科書をたくさん第三国を通して輸入して、それによって日本の歴史、地理から倫理まで研究して、日本人はどういう人情であり風俗であるか、産物にはどういうものがあるかということを十分呑み込んでから、それに対する手を打ってきたのです。
ところが、日本のほうはそれとまるで正反対で、たいして外国の事情を研究しなくてもいい時には中学校や女学校に英語を正課として置いて、どんなに英語の嫌いな者でも、英語を知らなければ卒業させないということを強制しておきながら、本当に英語が必要になった時には反対に敵性語だといって英語を教室から駆逐してしまった。極端なことは、英字新聞を読んでいるとスパイだというので殴ったりして、停車場のローマ字すら消してしまった。米国のやり方とは全く正反対です。
戦争になってからこそ英語を研究しなければならないのに、逆に英語を禁じてしまったのですから、日本人のやることがいかに不合理で見当違いかということが、それをもってもわかると思う。すなわち相手方の力量とか実情というものを研究しないで戦争をしたのだから、これではちょうど、めくらと目明きが撃剣〔剣術〕をするようなもので、向こうは急所を狙って打ちこんでくるのに対し、こっちは盲滅法に、ただ刀を振り廻すにすぎないので、この勝負は誰が見ても明らかで、到底勝ち目はなかったのです。
★なわ・ふみひとのコメント★
著者の永野護氏(故人)は衆議院議員として第2次岸信介内閣の運輸大臣を務めています。この本は終戦直後の昭和20年9月、著者の広島での講演速記を基礎にまとめられたものです。
戦後アメリカ(GHQ)は日本国内で強力に言論統制をして真実を覆い隠してきたのに、この永野氏は堂々とこのような“敗戦真相”を講演することが許されたところに着目する必要があります。つまり、これは真実の一部分ではありますが、そのことによってもっと大きな真実から目をそらすための小細工と見る必要があります。
もともと日本の軍部(主として海軍)の中枢にはアメリカの手先(スパイ)が多数植え付けられていて、彼らは日本を戦争に追い込み、敗戦によってその軍事力を根こそぎ潰してしまうことに利用されたのです。その代表的な人物が、真珠湾攻撃によって“卑怯な日本”をアメリカ国民に印象づけ、ミッドウエー海戦で日本空母と航空戦力を海の藻屑にする作戦に手を貸した山本五十六海軍大将です。
また、戦後において、A級戦犯とされながら死刑を免れ、首相にまでのぼりつめた岸信介氏もアメリカの代理人だったと見られています。永野氏はその岸内閣で大臣を務めた人物ということですから、やはりアメリカの覚えのいい人物であると見る必要があります。
この本はそういう大きなアメリカの策謀を感じ取る本と言えるでしょう。
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