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 この国の八百長を見つけたり
中村敦夫・著  光文社
 
 
 官僚がのさばる国で苦しむのは国民だ

 ……3年前のことですが、私が脚本・演出を担当したオペレッタ劇『RATS……ラッツ・霞ヶ関のドブネズミ・大蔵省』を東京各地区で公演しました。主役の大蔵官僚が5匹のネズミになって登場し、バブル経済についていろいろと質問する国民に向かって「オ東京大学のオ法学部を出ていない奴等は平民である」と、徹底的にバカにする。そういう喜劇なのです。
 日本という社会の窮屈さの原因は、官僚がのさばる政治システムにあるのではないか、というのがテーマになっています。江戸時代から延々と続き、明治時代に“焼き”が入ってなおさら固くなった「お上の支配下」に生きている不幸というか、そうした現実をミュージカル・コメディーにしてみたのです。
 なぜ、RATS、ネズミなのかというと、あの度し難い陰気さが漂っている霞が関の建物のなかでは、眼鏡をかけた官僚たちがグレーと紺のクラーい背広を着て、廊下をトコトコトコ走り回ったり、部屋の片隅で何やらヒソヒソやっている。それを見て、「連中はネズミみたいだな」と感じたのです。
 私は高校が新宿高校で、当時は毎年百人くらい東大に入る受験校だった。それこそ「東大に入らないやつは人間じゃない」というような雰囲気のなかで高校時代を過ごし、同級生がたくさん東大に行った。そして官僚になった人もかなりいるわけです。
 そういう関係で霞ヶ関へもよく行くのですが、あそこには血の通った人間がいないのです。一つの制度が化け物のように権力を持って動いているだけの話です。それを国民が「凄いものだ」と受け取って、ほとんど抵抗しないし、一時的に怒ったり騒いだりしてもすぐに忘れて従順になってしまう。こんなことをやっていては永遠に官権構造を変えられない。

 
国会議員は八千人の官僚たちに囲まれた人質だ

 官僚たちが思いのままに政治を主導しているなら、それではいったい、国会議員、政治家とは何なのか。ネズミの集団に包囲されたネコかもしれません。
 たとえば、法務委員会の理事懇談会は9人ぐらいでやりますが、その横に官僚たちがずらりと並び、どんな私語も聞き漏らさないように、全員が聞き耳を立てて監視しています。われわれはまるで人質みたいな存在なのです。これが国会の縮図です。
 国会議員は衆議院500人、参議院252人、約750人しかいない。そして政策や法案をつくるという本来政治家がやるべき仕事を代行している霞ヶ関の高級官僚が約8000人いる。750人に対して十倍強もいるわけです。要するに、8000人の官僚たちに囲まれた750人の人質が国会議員なのです。そして、8000人の総意でもって決められたプログラムを、民主主義の儀式として、いちおう国会が決定するような、そういう段取りに追い込まれている。これが「この国のかたち」です。
 政治は何によって権力を示すかというと、立法によって権力を示す。法律をつくることによって世の中を動かすわけです。これが法治国家の基本です。国家の立法機関、本来ならば政党や政治家たちが立法しなくてはいけない。ところが、そんなことは例外的にしか行なわれたことがないのです。ほとんどその権利を放棄しているというのがこの国のかたちです。立法府が立法をしていない。
 法案には議員提案もないことはないが、内閣提案と言われている法案がほとんどです。しかしこれは内閣にいる大臣がつくったわけではなく、実際は官僚作成のものばかりなのです。法案が内閣決定される時には、政策でもそうですが、総理大臣には権限がなく、閣議決定ということになります。ここが大統領制と違う議院内閣制の特徴で、総理大臣には大統領のように最終決定権はありません。閣議で全員が賛成しないとダメだというシステムになっている。その閣議のメンバーたるや、これもまた、その分野の専門家でもないのに、派閥の順番でたまたま大臣になった人々です。ですから、法案などわかるわけがない。総理大臣も各大臣も誰でもいいわけです。

 
日本のすべてを決定するのは各省庁の事務次官たちだ

 閣議では何かが最初から検討されるわけではなく、決めるテーマなり材料なりが上がってくる。どこから上がってくるかというと、各省庁の事務次官会議で調整されて上がってくる。閣議では、ただハンコを押すだけが仕事です。ということは、日本のすべての方針は、事務次官会議で決定されるということになります。
 つまり、各省庁の事務次官は、各分野の日本の代表なのです。国民の選挙で選ばれていない官僚が、実質的には代表になっているという摩訶不思議な官僚国家が日本というわけです。ですから、はっきり言って国会の運営というのは、もはやかたちだけのもので、儀式と して行なわれているということです。
 では、与党政治家などが何をしているのかというと、各委員会で始めから終わりまで坐っているだけです。自分たちでつくった法案ではないから、あまり関心もない。質問者だけが少しわかっていても、その他の議員には坊さんの読経のように聞こえる。質疑が4時間も5時間も続くのですから眠たくもなるでしょう。
 それも委員会に出てくる人はまだしも、全員が出ているのは初日だけで、あとはまばらになる。あんまりガラガラなのもカッコ悪いとあって、代わりばんこに来ては、座るなり寝てしまう。だから粛々と議事は進行し、まことにスムーズであるとお褒めをいただくわけです。
 官僚機構という大海に浮かぶボートに乗った政治家は、潮の流れに逆らいさえしなければ、安全で平穏な毎日を保証してもらえるという構図ができているのです。しかしそのボートがどこに向かっているのか、どこへ行こうとしているのかはわからない。わからないのは政治家だけでなく、じつは官僚にも本当はわかっていない。なぜなら役人のつくる波は、目先の省益だけを目指しているからです。私たちはいま、凪のように見えて、じつは恐怖の海を漂流しているのです。


 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
連続テレビ時代劇「木枯らし紋次郎」で知られる中村敦夫氏は、その後はテレビの報道番組でニュースキャスターを務め、その知名度をもとに参議院議員に当選しました。その議員時代の経験から、この本の中で「霞ヶ関」の実態を赤裸々に暴露してくれています。結論は、「日本の政治を動かしているのは政治家ではなく官僚である」ということです。しかしながら、国民は官僚を選別することはできません。知名度の高いタレントやスポーツ選手を議員に選んでも、その彼らが政治のプロである官僚に太刀打ちできないのは誰でもわかります。しかも多勢に無勢──。国会という名の劇場で、ただ踊らされているだけというわけです。いまその官僚たちを計画的に育成・配置し、ある方向に動かしつつあるのが、この国を実質的に支配しているグループなのです。それは宗教団体であったり、外国勢力であったりします。この本はそこまでは触れていませんが──。
 毎日新聞(5月29日)に、「タレント候補は是か非か」というテーマで小林良彰氏(慶應義塾大学教授)と中村敦夫氏の対談が載っていました。その中の中村氏の発言の一部をご参考までにご紹介しておきます。

中村敦夫 私自身が政治に入ったモチベーションというか、理由というのは、やはり未来の人間社会を予測していくと非常に危険という、その認識が非常に強かったわけです。情報キャスターとして世界中飛び回って、いろんなもの見てきたということ、それと同時に世界の政治とか、日本の政治のことも考えざるを得なかったということですよね。ですから、政治的な発言をしていくうちに、私の考え方と似た人たちが、政界でも新しい動きを始めたというところがあって出会いがあった。
 ただ、基本的には国会議員は立法にたずさわる。国会は立法機関ですからね。やはり、かなり広範な知識と、時代認識とか、それから物事に対する見識というものが要求されます。別にそれは法律には書いてないけれども、実質的には要求されるわけです。何も知らない人が、立法なんてできないですよ。年間200本近い法律を審議しなきゃいけない。内容も分からず賛否の投票してるとしたら、これは実に不誠実なことですよね。
 政治家っていうのは国民の代表として選ばれる。そういう資格がタレント候補と言われる人たちにあるのかと言われれば、現状ではないですよね。例外はありますけどね。それは何をやって有名になったかということと関係あるんですけど、とりあえず政党に名前を貸したという人たちには、そういう能力がないということは、現場で分かります。今のような乱立は、何でもいいから、昔有名だったとか、名前をまだ覚えているというようなスポーツ界の人々、芸能界の人々をアトランダムにノミネートしてるということはありますね。まるで、ハローワークみたいな感じがしますね。要するに、忙しくなくなった元有名人たちのね。大変重要な仕事をしなきゃいけないという能力と、「昔の名前で出ています」の能力とでは、余りにもギャップがありすぎる。
 
 
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