大本の「雛型」は、これから本格的に移写する
じつは、日月神示には、戦争に負けた日本は、再び勢力を盛り返すが、またもや潰れることになると、はっきりと示されているのだ。これは戦後の経済復興と、それに続いて起こる崩壊の予告とみるべきであろう。
「まだまだ俘虜になる者沢山あるなれど、今度の俘虜まだまだぞ。いずれ元に帰って来るから、元に帰って又盛り返して来るなれど、またまた繰り返すぞ。次にまた捕らえられる者出て来るのざぞ、次はひどいのざぞ。これも因縁ざぞ。神の国は誰が見ても、どう考えても、二度と立ち上がられん、人民みな外国につくようになって、この方の申した事、みな嘘ざと申すところまで世が落ちてしもうてから初めて神力現れるのざぞ」(昭和20年12月18日)
「今度捕らえられる人民沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。牢獄で自殺する者も出来てくるぞ。女、子供の辛いことになるぞ。九分通りは一度出てくるぞ。それまでに一度盛り返すぞ」(昭和21年旧1月15日)
「同じこと二度繰り返す仕組ざぞ。このことよく腹に入れておいて下されよ。同じこと二度」(昭和22年8月2日)
「出てきてから、また同じ様なこと繰り返すぞ。今度は魂抜けているからグニャグニャぞ、グニャグニャ細工しか出来んぞ。それに迷うでないぞ」(昭和22年8月14日)
これらの神示は、すべて終戦後に出されたものである。
さらに、終戦直前の昭和20年6月23日には、
「神の国、一度負けたようになって、終いには勝ち、また負けた様になって勝つのざぞ」
とも示されている。
日本は戦後、高度成長期を迎え、いまやGNP(国民総生産)世界第2位という、押しも押されもせぬ経済大国となった。だが、その精神的な中身を見れば、日本人としての思想もなく、ヴィジョンもなく、魂の抜き取られた「グニャグニャ」人間ばかり溢れる社会となってしまっている。
まさに、神示のとおりに事が進んでいるといわざるを得ない。
神示が予言した大食糧危機
日本政府は、ついにコメの関税化を受け入れた。これにより、日本の米作農業の基盤は、根底から揺さぶられることになろう。
食糧の自給自活は、じつは死活上の大問題である。食糧の海外依存度を高めることは、きわめて危険である。現在日本は、上から下まで不況にあえいでいるが、相変わらすの飲み食い三昧を改めるようすもない。かりに、食糧の輸入が全面的に停止した場合どうなるのか。大食糧パニックが現出することは目に見えている。
日本国内では現在でも年間およそ一千万トンもの食べ物が、残飯として捨てられているという。土に対する感謝、五穀に対する感謝を忘れた現代日本人には、必ずや食べ物の尊さ、ありがたさを思い知らされるときが再びやってくる。
その大食糧危機の到来は、すでに『大本神諭』から予告されているのだ。
「大切な土地を要らぬことに使うたり致して、人民の肝腎の生命の親の米、麦、豆、粟を何とも思わず、『米や豆や麦は何程でも外国から買える』と申して居るが、何時までもそうは行かんことがあるから、猫の居る場にも五穀を植付ねばならんようになりて来るぞよ」(明治36年8月16日)
「毎度出口直に兵糧を獲(え)て置かねば成らんという事が、くどう申してあろうがな。『米が有る』と申して油断を致すでないぞよ」(大正元年旧8月19日)
「日本の国だけでもこれだけ持て余して居りて、他の国の事ども構い立てする暇は有りもせんのに、肝腎の足元は、よい加減な事に致しておいて、『終には共倒れに成る』と言う事に気の付かん様な明盲であるから、(中略)食物は段々と欠乏になるなり。菜の葉一枚でも大切な事に、今に成りて来るぞよ」(大正6年旧11月23日)
これらは、戦中から戦後にかけて日本国民の体験した食糧不足のことだと思われるかも知れない。だが、それで片づけてしまってよいのだろうか。現代においても、見事に当てはまる警告の言葉なのではなかろうか。そして、日月神示にも同様のことが示される。
「一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ、いくら買い溜めしても神の許さんもの一つも身には付かんぞ。着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。早う神心にかえりてくれよ」(昭和十九年六月三十日)
「元の神代に返すというのは、譬(たと)えでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ。生の物食うて暮らさなならんし、臣民取違いばかりしているぞ。何もかも一旦は天地へお引き上げぞ。我の欲ばかり言っていると大変が出来るぞ」(昭和19年7月9日)
「食うものがないと申して臣民不足申しているが、まだまだ少なくなりて、一時は食う物も飲む物もなくなるのぞ。何事も行であるから、喜んで行して下されよ」(昭和19年8月14日)
「神は気もない時から知らしてあるから、この神示よく読んで居れよ。一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな。米ばかりでないぞ、何もかも、臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、臣民ばかりでないぞ、神々様さえ今度はなくなる方あるぞ。臣民というものは、目の先ばかりより見えんから、呑気なものであるが、いざとなりての改心は間に合わんから、くどう気付けてあるのぞ」(昭和19年8月27日)
日本対世界の戦争が、万が一にも今後に起こるようなことがあれば、神示に示されたこうした悲惨な地獄絵図は、一気に現実のものとなるだろう。
ついに「立て替え」の時代がやってくる!
かくして、日本人の大淘汰、世界の人民の大淘汰が始まる。大本の時代からくどいほど発せられていた「立て替え予言」の現出である。
「正真の神が御守護にて一度に致したら、二、三分残る。世界で二、三分と申すと、あちらに一人、こちらに一人残るという様なひどい事になるから……」(明治36年3月3日)
「戦争と天災とが始まりたら、人民が三分に減ると、初発の筆先に書いてあるなれど、茲に成ると世界に残る人民が二分位より無いぞよ」(大正6年9月5日)
そして、日月神示にもー。
「神の国を、足の踏むところない迄に穢(けが)してしもうているが、それで神力は出ぬぞ。臣民無くなるぞ。残る臣民三分難しいぞ。三分と思えども、二分であるぞ」(昭和20年6月18日)
「あちらに一人、こちらに一人、という風に残る位、むごいことにせなならん様になっているのざから、一人でも多く助けたい親心汲み取りて、早う言うこと聞くものぢゃ。ここ迄神示通りに出ていても、まだ判らんのか。疑うのにも余りであるぞ」(昭和22年8月23日)
現在のところは、まだその気もないかも知れない。しかし、ことが実際に、誰の目にもわかるようになってからでは遅すぎる。我々は、いまこそ真摯な気持ちで神の言葉を受けとめ、早急に対策を急がねばならない時期にきているのである。
そして、そのような、人類が二分か三分になるような大変動が起こったあとに実現するのが、「みろくの世」である。その理想像についても、日月神示は『大本神諭』と酷似した描写をしている。
「神の世と申すのは、今の臣民の思うているような世ではないぞ。金は要らぬのざぞ。お土から上がりたものが光りて来るのざぞ。衣類、食べ物、家倉まで変わるのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあろうがな。誰でもそれぞれに先の判るようになるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて、水晶の様になるのぞ。悪はどこにも隠れることの出来んようになるのぞ。博打、娼妓(しょうぎ)は無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ。風もよきように吹かしてやるぞ。神を讃える声が天地に満ち満ちて、嬉し嬉しの世となるのざぞ」(昭和19年8月7日)
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