感謝の言葉 1995(平成7)年5月29日
第二次世界大戦の終結から50年目の1995(平成7)年5月29日、東京九段の日本武道館では、アジアの戦没者を悼み、日本とアジアの将来を考える『アジア共生の祭典』が開かれていた。会の冒頭で、「アジアは世界の平和の架け橋として、21世紀に向けての新しい使命を担わなければならない」という『アジア共生東京宣言』が発せられ、会場に集った1万人から大きな拍手が起きた。
それから、この会に参加したアジア各国の代表が挨拶に立った。タイのタナット・コーマン元内閣副首相、マレーシアのマラヤ大学副学長サイド・フセイン・アラタスに続いて、この年に独立50周年を迎えたインドネシアのサイデマン・スリョハデイプロジョ外務省上級大使が壇上に登場。陸軍大学長、駐日大使などを歴任したサイデマンは、当時のスハルト大統領の特使として列席したのである。
ゆっくりと会場を見回しながら、サイデマンは力強く語った。
「第二次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために、独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。今日、このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために命を捧げてくれた、これらすべての若者たちを偲びたいと思います」
サイデマンの言葉はスハルトの言葉でもあった。インドネシアの第2代大統領として30年に及ぶ長期政権を率いたスハルトは、日本軍政下で組織されたペタ(PETA・郷土防衛義勇軍)に加わり、日本流の軍事訓練を受けた。ペタの青年兵士たちが後に独立戦争軍の将校団となり、独立の原動力となったのである。
植民地からの解放 1942(昭和17)年1月11日
インドネシアにおけるオランダの植民地政策は巧妙なもので、まず教育の機会を与えない愚民政策を推し進めた。「アジア人は白人に劣る」と刷り込むことで、白人の支配から抜け出すことは不可能だと思い込まされたのだ。また、一部原住民をキリスト教に改宗させて軍に採用し、民族の族長を通じた間接統治を行なって氏族の分断を図った。集会や団体行動は一切禁止され、多数の民族語を統一した標準語を作ることも禁止された。
20世紀になるとようやく圧政への反動から倫理主義政策が採用され、下級官僚として使える程度の教育を施す学制が作られたが、オランダ人との混血児を優遇して、支配者と被支配者の緩衝材とする政策なども露骨に実施された。それでもこの倫理主義には、民族意識に目覚めた知識人を生む効果があったのである。
日本のインドネシア侵攻は、まさにそういう時期に始まった。
1941(昭和16)年12月8日、日本が真珠湾攻撃に踏み切った直後、オランダは日本に宣戦布告した。日本はオランダ領東インドの攻略を『蘭印作戦』と名づけ、1942(昭和17)年1月11日にボルネオ島のタラカン、セレベス島のメナドへの攻撃を皮切りにジャワ島を目指した。スマトラ島のベンクルに幽閉されていたスカルノはじめ、ハッタ、シャフリールら、当時のインドネシアの代表的な指導者を解放した。
そして今村均中将が率いる陸軍の主力第16軍は3月1日に上陸を開始、わずか9日間でオランダとアメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍を降伏に追い込んだ。
日本軍は侵攻の前からインドネシアに向けたラジオ放送で、インドネシアの解放を呼びかけ、『インドネシア・ラヤ』(後の国歌)を繰り返し流した。また、当時のインドネシアでは、「長い間白人に支配されたのち、北から来た小柄な黄色人が白人を追い出し、その後、幸福な時代が来る」というジョヨボヨの予言が信じられていたのである。日露戦争に勝利し、アジアの解放を主張する日本には、この予言の体現者となる期待がかけられていた。そして実際に、350年にわたってインドネシアを支配してきたオランダが、たった10日足らずで降伏したという事実は、驚きと感謝を持って多くのインドネシア国民に歓迎されたのである。
しかし、インドネシアの人々にとって、日本人は未知の存在だった。憎むべきオランダを追い出したとはいえ、日本は単にオランダに代わる存在にすぎないかもしれない。そんな不安もまた多くの国民に共通のものだった。
それを払拭したのが、今村司令官を通じて出された『布告第1号』である。
日本人とインドネシア人は同祖同族である
日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
同一家族、同胞主義に則って軍政を実施する
『民心の安定』こそ第一と考えた今村が強い信念をもって、強圧方針を唱える軍政担当者を説得して掲げたものだった。
「日本が掲げた“八紘一宇”とは同一家族同胞主義なのに、侵略主義のように誤解されているところがある。軍事力を持っているわが軍は、何かあればいつでも強圧を加えることができる。だからできる限り、緩和政策をもって軍政を実行することとする」
それでも、今村の決断にはなお強い反対があり、元内務大臣の児玉秀雄ら3人が統治政治顧問として陸軍大臣から派遣されてきた。今村は上陸以来のインドネシアの人たちの日本軍に村する好意と協力ぶりを説明し、児玉らに現地視察を勧めたのである。
「どこへ行っても日本の内地と変わらない。原住民は日本人に親しみ、オランダ人は敵対を断念し、華僑は迎合を強めている。産業の回復も早く、軍事物資の調達成績も優れている。ジャワでは強圧政策は必要ない」
児玉を含む3人の顧問はそう言って感心した。陸軍省ではさらに武藤軍務局長を派遣して強圧策の必要性を説いたが、今村はそれを見解の相違だと突っぱねた。
「新しい統治要綱が発令されれば軍紀に従うが、自分の起草案にもとるものに屈することは耐えられない。新要綱の指令が出る前に免職を計らってください」
今村は、まさに自身の首を賭してジャワ軍政の基本方針を貫いたのである。
★なわ・ふみひとのコメント★
この本では、トルコやポーランド、ベルギーなど計7つの国の人たちに対してかつての日本人が示した好意の数々が、具体的な事実に基づいて紹介されています。その中から、オランダの植民地と化していたインドネシアの独立に日本が大きく貢献したというエピソードをピックアップしました。オランダと日本の植民地政策の違いがよくわかる内容となっています。残念ながら、このような事実は日本の学校では教えらず、大新聞やNHKなども取り上げることがありませんので、大半の日本人はそのことを知らないのです。アジアの国々でも世代が交代していきますと、日本人が命を賭して自国の独立に貢献してくれたという事実を知る人も少なくなっていくと思われますが、せめて私たち日本人だけでも、国の先達の偉大な功績について心にとどめておきたいものです。
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