己を愛するは善からぬこと
時代が大きな転換期を迎え、閉塞態と不透明さが周りを覆うとき、語られる言葉がある。それはたとえば「清貧」であったり、「品格」であったり、「変革」であったりする。
そして、昨今の新自由主義がもたらしたこの国の政治や経済の混乱と破綻の状況を見るとき、それを預かり、その責を担うものへの倫理観、責任感のありようが厳しく問われる。
そんなとき、私たちは、あの巨人西郷の「無私≒至誠」という言葉を強く思い出す。ここでまず、西郷の言葉を記録した『南洲翁遺訓』の一節を見てみよう。
「己れを愛するは善からぬ事の第一なり。修行の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むる事の出来ぬも、功に伐(ほこ)り驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり」
文字通りここでは私利私欲を抑え、清廉誠実なる生き方を強調したものである。それはあの有名な「幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し。(中略)児孫のために美田を買わず」という言葉に重なる。
それは西郷自身の生き方の哲学であると同時に、世の人々の処世の哲学としても語られている言葉である。
実際、彼の私生活そのものを示すエピソードが、そのことを如実に物語っている。たとえば、坂本龍馬が鹿児島に来て西郷の家に一泊したときのことである。夜半に西郷と夫人の話す声が聞こえてきた。夫人が家の屋根が腐って雨漏りして困っている、お客があったときなど面目がないので早く修理してほしいと訴えると、西郷は「いまは日本全国に雨漏りがしている。我が家の修繕なんかしておられんよ」と答えたという。(山田準『南洲百話』)
同じく西郷の住居の話だが、今度は東京での参議時代のことである。鮫島志芽太氏によると、当時の最高の高官である参議時代の彼の住居は日本橋小網町にあったが、家賃三円の借家であった。間取りは、西郷の居間が六畳、客間が八畳、ほかに用人の熊吉の居室、十人ほどの書生たちの部屋だけであった。食事は熊吉が作り書生が手伝った。当時、西郷の月給は五百円、生活費は書生たちの分まで含めて十五円、残りは大蔵省へ返却したが受け付けられず、皇居の修理費や書生、近衛兵たちの学習費や小遣いにあてたという。文字通り、質素で無私の姿勢を自ら貫いていたことを示す一例である。
しかし、彼が説いた無私という言葉の標的は、むしろ権力の上に胡坐(あぐら)をかき、奢侈の限りを尽くしていた当時の政府の高官たちに向けられていたと見ていいだろう。
やはり『南洲翁遺訓』(以下、『遺訓』と略称)の中で「万民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢(驕奢)を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行なわれ難し」と語り、同じく『遺訓』の冒頭で「廟堂(政府)に立ちて大政を為すは天道を行なうものなれば、ちっとも私を挟みては済まぬもの也」とし、官に対して、厳しくその倫理観を求めている。そして、先の『遺訓』では具体的に続けて「然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり」と語っている。
そして、多くの犠牲を払って戦ったあの戊辰の義戦の結果も、偏(ひとえ)に私を営む姿になってしまい、天下に対して、そして戦死者に対してまことに面目なく、ただ涙がにじむばかりであると、まさに悲憤慷慨の極みであるという西郷の義憤を語っているのである。
★なわ・ふみひとのコメント★
ここにご紹介したエピソードからも、西郷隆盛は、国の政治を司る人間の理想像とも言える人物であったことがわかります。その「敬天愛人」の信条とともに、私が最も尊敬する歴史上の人物です。残念ながら、最終的に明治新政府の実権を握ったのは、大久保利通や伊藤博文という権謀術数に長けた俗物でした。総理大臣時代の伊藤博文の給料は今のお金に換算すると約10億円にもなるそうです。芸者遊びが大好きで、気に入った女性には高額の宝石などをプレゼントしていたといいます。伊藤博文に限らず、明治新政府を担った人物の中には、西欧の文化にかぶれて奢侈に走る人物が多かったのでしょう。そういう姿を見て、西郷は「家屋を飾り、衣服を文(かざ)り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられまじきなり」と嘆いているのです。
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