「最後の攻防」は始まっている!
世界初の原爆投下は、広島と長崎だった。
その日、原爆を搭載したB−29が小倉市の上空に入ると突如として雲が湧きでて視界がきかなくなり、機は計画を変更して快晴の長崎へと向かった。
長崎は日本でもっとも聖母信仰の篤い地域で、目標は日本最大のカトリック教会。機の真下には聖母マリアに献じられた大聖堂があった。原爆は1400年の長い信仰の歴史をもつ浦上天主堂の真上で炸裂したのである。操縦席に座っていたのは、ユダヤ人のウィリアム・ローレンスとリップマン・サイニューという男だった。
いったいだれが原爆開発を許可し、だれが広島・長崎に原爆投下を決定したのか?
この長い間うやむやにされてきた問題点を明確にせねばならないという使命感に目覚めた米ジャーナリストのユースタス・マリンズによると、犯罪者は次のふたりだという。
ひとりは、アメリカを原爆開発に踏み切らせたアルバート・アインシュタインで、もうひとりは、広島・長崎に原爆投下を決定したマンハッタン計画の責任者、ロバート・オッペンハイマーだという。いうまでもなく、両者ともにユダヤ人である。
アインシュタインは第2次大戦中にアメリカに亡命すると、まずトルーマンを大統領にすべく尽力した。
ウィリアム・クレイグの『アインシュタインの時代と生涯』には「パレスチナにユダヤ人国家を建国するため、私はユダヤ人としてシオニストの活動を支持する」というアインシュタインの言葉が記録されている。
イスラエルのアメリカ大使だったアバ・エバンも1971年、「アインシュタイン教授は、世界の良心がイスラエルの生存と関わるべきだと語った」と回顧録で述べている。
マリンズによると、アメリカを原爆開発に踏み切らせたのは、アインシュタインの書簡(1939年8月2日付)をロシア出身のユダヤ人アレクサンダー・サックスが、ホワイトハウスのルーズベルト大統領へ届けたことが発端という。
アインシュタインはロスチャイルドとも親交があり、この手紙を見たルーズベルトは、原爆開発計画をロスチャイルドが承認し、大至急遂行せよといっている意味が明確に読み取られたという。
こうして原爆開発は、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所で何事にも優先する突撃計画で実行された。科学者の多くはニューヨークのユダヤ人居住区であるマンハッタンの在住者だったため、「マンハッタン計画」と呼ばれた。指導者はユダヤ人の大富豪バーナード・バルークで、責任者はアインシュタインを師と仰ぐユダヤ人科学者、J・ロバート・オッペンハイマーである。
1945年7月16日午前5時29分45秒、ロスアラモスの南200マイルで最初の原爆は炸裂した。
この光景にオッペンハイマーは狂喜して「私は死に神、世界の破壊者だ」と叫んだという。全人類を支配する究極のパワーをユダヤ人が獲得したことを知ったからである。
オッペンハイマーは、原爆投下は日本に警告なしに行なわれるべきだ、と主張した。
当時、すでに日本の都市のほとんどが破壊され、50万人が焼死し、2000万人が住居を失っていたが、不思議なことに4都市のみが破壊を免れていた。広島、小倉、新潟、長崎で、これらの場所の住民たちは、原爆のテスト用に生かされていたとは夢にも思わなかったに違いない。
25万の住民の半数以上が殺された広島の、日本人医師の言葉がある。
「B−29が毎日のように上空を飛んでいたのに、広島が爆撃されなかったのが私には不思議だった。広島を原爆の目標にするため手をつけなかった、ということを私は戦後に米国の文書を通して初めて知った」
アインシュタインはユダヤの大財閥バルークとともに、京都を原爆の最初の血祭りにあげるべきだと主張したが、スティムソン陸軍長官は「京都になんら軍事目標はなく、由緒ある木造寺院が数百ある」といって猛反対したという。
アインシュタインとバルークは、京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっていたという理由だけで、京都の破壊を求めたのである。
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