カルマの法則と神の意志
サンスクリット語のカルマという言葉は、単に「行動」という意味を持っているだけである。しかしこの言葉は、しばしば因果応報の法則の意味で使われている。われわれは言葉の用法を修正して、カルマの言葉を狭い意味の因果応報から、より広い意味の「先立つ原因と後に生ずる結果」という意味に理解する必要がある。法則としてのカルマをもっと正確にいえば“類は類を生む”といった格言がこれに当たるだろう。
だからカルマの法則のことを考える場合、返報とか正邪の判断とかいったことは技きにして、単純に“類は類を生む”という法則として考えるのがいいだろう。するとこの法則は、時間の流れを超えて、きわめて精密に働いている法則だということがわかる。人間は神の共同創造者である。だから人間が考えたり体験したりすることはそれが単にわれわれの上に起こっているということだけには留まらない。それはそのままわれわれの一部になるのだ。そしてそれは、われわれと神との一体性を意識する意識の間に介在するものにもなる。
ケイシーは『聖書』にふれながら、これが不変の法則だということに疑いをはさむ余地のないこととして解説している。「自分が蒔いた種は自分で刈り取らねばならない」というのは、人間の生活のうえで園芸をする場合と同じようにまぎれもない事実である。
カルマは自分でつくった結果
ここで、カルマの法則のことを考える場合に、心に留めておくべきことがいくつかある。一つはわれわれが自分の内部につくり出したパターンは、時間を超えて残り続けるということである。人は自ら蒔いたものを刈り取らねばならないということを聞くと、この2つの時間の間にはそれほどの時間の経過はないのだろうと思う人が多い。しかし、無意識という世界は時間のない世界なのだ。
古代エジプト時代の穀物の種が、いまでも発見されている。この種は四、五千年以上も経った種である。この種は何千年も眠っていたのにもかかわらず、好適な条件のもとに蒔けば芽を出す。これと同じようにずっと前の前世での人間の行動や態度も、何回生まれ変わりがくり返されたとしても無になるものではない。他人が行った行為の尻ぬぐいをさせられるのは公正ではないと文句をいう人もいよう。しかし、そこが問題の急所である。なぜならばわれわれが対面するのは実は自分自身なのだ。それは他人ではなく自分なのだ。過去の生において、現在の自分がいる状況を生み出すようなパターンをつくったのは他人ではなく自分なのだから。
もう一つ、カルマの法則についてはよく理解されていないことがある。それはこの法則が持っている動きという側面である。この動きは、ものをつくり出すものとしての心から、物質的世界への動きである。たとえば一つの前世において、ある態度や行動のパターンをつくったとする。するとそれは後の生において、肉体に眼に見える結果となって出てくることがある。だから現在のわれわれの体の特徴や病気なども、前の生における態度や行動の結果かも知れないのだ。
カルマの法則についての大きな誤解の一つは、人間は自分がつくった負債を払わされているという考えである。しかし、これは負債の支払いというように考えるべき問題ではない。自分がつくったものと結びついているということなのだ。これをどちらに考えるかで、われわれの態度には大きな違いが生ずる。
前者の見方に立つと、裁判官が支払いを命じていることになる。しかしもう一つの見方ではものごとがカルマ的に発現するのは過去の行動や考えからすると自然なことで、法則にかなった成行きだということになる。カルマが辛い体験である時には、人はカルマには返報という性質があるのだと感じ易い。しかし神もカルマの法則も、人間を罰したり、返報したりするものではない。そうではなくて、人間が直面するのは自分が前に自分でつくったものの自然な結果なのだ。
★なわ・ふみひとのコメント★
「カルマの法則」の正しい理解の仕方が凝縮して語られています。ケーシーはここで「カルマ」を「自分の内部につくり出したパターン」と表現しています。私が「カルマ」を「心の癖」と呼んでいるのも、それと同じ意味です。
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