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 E・スウェデンボルグの霊界
V
 E・スウェデンボルグ・著 今村光一・訳
中央アート出版社
   
 
 最後の審判が霊界で行なわれる理由

 最後の審判をひとことで言えば、それぞれの霊に霊界での最終的な“居住地”を振り当てることである。そして、霊の“居住地”は、その霊の善悪高低などの性格要素に応じて決められる。
 したがって、最後の審判には、まずその霊の本当の性格が明らかにされなければならない。
 人間は、その本質においては霊だとしても、人間であるうちは物質界に生きていて、物質的な肉体を持っている。しかし、死ぬと物質的肉体を捨て、霊的肉体を持つことになる。そして物質的な肉体のほうは、その性格を云々すべき対象にはならないのである。なぜなら、物質的肉体はそれ自身では生きた存在ではなく、単に霊によって生かされている霊の道具にすぎないからである。
 死後、霊的肉体を持つことになって初めて、人間はその本質を明らかにする。そして最後の審判の対象となる。

 最後の審判は霊界のどんな霊に対して行なわれるのか

 先に結論だけ言うと、最後の審判は第一霊国において、人間だった時に少なくとも表面的には善良な市民と見られていたような人びとの霊に対して行なわれる。その上の天国の霊も下の地獄の霊も、最後の審判の対象にはならない。言ってみれば、彼らはすでに審判を受け終わった者たちだから、と解釈しておいていいだろう。
 第一霊国にいる霊たちだけを対象に審判がなされるのは、ここがいわば“雑居地帯”だからだ。第一霊国は、天国、霊国を一緒にした天界の最下層に属する場所である。
 彼らが人間だった時は、表面的には宗数的にも敬虔らしくふるまっていた。しかし、その本質においてはそうではなかった。社会的にもモラルや法に適った生き方をし、正しい人間と見られていた。しかし、本当に霊的な意味でそう言えたか否かは疑問があった。
 こんなタイプの人間の多くが集まるのが、第一霊国である。彼らがこのような人間として生きていた理由は、誰にでもわかりやすい。人間でいる時には、人は世間の評判を気にしたり、あるいは隠れた欲望を達するために、表面的には敬虔な人間のふりや、正義漢のふりもしたりする。要するに、外面を装うわけである。しかし、その本質はつねにその外面と同じとはかぎらない。このようなことは、人間界ではごく普通にあることである。
 先ほど私は、人間だった時に自分自身でも信仰を持っていたと信じていた霊の話をした。しかし、よく調べてみると本当は信仰を持っていなかったことがわかる、というタイプの霊が多いということを紹介した。こういうケースでは、彼は人間だった時に意識的に外面を装ったとも思われない。しかし、それでもその人間(霊)の本質が、深いところで明らかになる霊界では、彼はやはり“本物”とはされないわけである。
 第一霊国の“雑居地帯”は、まさにもっとも人間界的だとも言えよう。そして、たしかにここは人間界そっくりでもある。
 
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