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 エドガー・ケイシー
1998最終シナリオ
 カーク・ネルソン・著 光田秀・訳 たま出版
 
 
 宇宙のあらゆるものは、物質にしろエネルギーにしろ、全て波動でできている。エネルギーの波動は、物質の波動より高い。瞑想と霊的生活は、肉体という物質の波動を、エネルギーの波動のレペルまで高め、普遍的な意識へと向かわせる。「高める」という言葉は、波動に関して極めてふさわしい言葉である。波動を高めることで、物質はエネルギーという形態へ移行するのだ。
 
意識を高めることは、キリスト再臨にとって中心的なことである。まず、人間の波動が高まることで、イエスが地上に引き寄せられるからである。第二に、私達がひとたび自分の永遠の魂に触れれば、もはや肉体の死は何の力も持たなくなるからである。これから起こる大変動によって、多くの人の命が失われるだろう。しかし、彼らが自分達の霊性を高めておくなら、彼らの魂は至福千年の間に、再び生まれ変わってくるだろう。ということは、たとえ大変動によって死んだとしても、霊性を高めていた者は「生き残る」ことになる。
 キリストの再臨に関する多くの本が、食料を貯蔵する等の方法で生き残ることを述べている。しかし、
真の意味での生き残りは、魂の成長に基づくものである。イエスが十字架を受けて、墓の中で三日後に復活されたのは、明らかにこのことを伝えようとしたものだ。
 ダニエルのいう7年の最後の週の長さは、このことについての重要な示唆を含んでいる。7年という時間は、人間の体の細胞が全て入れ替わるのに必要な時間である。この7年間に人間は完全に変わることができる。既に述べたことではあるが、
全ての人は、キリストが再臨される前に、自らの霊性を高め、細胞の一つ一つまでも高めるという機会を与えられる。そして最後に「内分泌腺による審判」とでも呼べるようなことが起こるのだ。この時には、各人は、自分の7つの内分泌中枢が持つエネルギー・レペルに応じて裁かれることになる。もちろん、私達が死ぬ時には、これと同様の基準によって、全ての人が裁かれているのだが、至福千年への過渡期には、これが生きている者にも起きるのだ。


 ★なわ・ふみひとのコメント★
 
終末の時代における「身魂磨き」の意味が短い文章のなかに端的に表現されています(キーワードとなる部分を赤い文字に変えておきました)。まず、魂を磨く上で「日々の瞑想」が大変重要な意味を持つと述べられています。瞑想は「神次元の波長に自分の心の波長を合わせる訓練」と言うことができます。心に湧き起こる邪念や雑念にとらわれることがないレベルまで精神を統一することによって、心の掃除・洗濯が進み、波長が高められるのです。難しいのは「波動を高めよう」といった思惑が働くと、ある種の欲念を生むことになることです。仏教にも「只管打坐(しかんたざ)」という言葉があり、「何も求めずひたすら座禅を組んで瞑想することが大切だ」と教えています。
 瞑想についてはこの程度の解説にとどめるとしまして、もう一つ述べられている「霊的生活」の意味にも触れておきたいと思います。いろいろな解釈ができますが、ひとくちに言えば「神を意識した生活」ということができます。古き日本の言葉を借りれば「お天道様が見てござる」という考え方で、誰も見ていないところでも自分の言動を厳しく律しながら、すべてを天の配剤と考え感謝の気持ちを持って生活することです。そのような心の境地になれば、魂は磨かれ、波長が高まるということをケイシーは述べています。そして、そのような人々が増えていくことによって、この地上の波長が高められ、神の国と呼ばれる次元へと上昇する(=キリストが再臨する)ことになるのです。この終末に肉体の命を失ったとしても、神の国に行けるように波長を高めた魂は、「至福千年」と呼ばれる半霊半物質の世界に生まれ変わることができると述べています。
 そういう意味では、終末の大混乱の中で、この肉体生命を失う恐怖に駆られる必要はないということです。最後の部分でケイシーは「これまで人は死んだ時に霊界で裁かれていたのだが、終末においては人は生きたまま裁かれることになる」と述べています。つまり、いままでは死後において、人はその魂のレベルに応じた霊界の各層に赴いていたのですが、終末においては霊界と物質界の境界がなくなっていくため、肉体のままで波長に応じた世界に導かれてしまうことになるということです。ですから、既に他界して霊界に行っている魂も含めて“選別”の対象になるということでもあります。魂を高いレベルまで磨き終えて霊界に行っている人たちは、この物質世界の大混乱を体験することなく新しい世界(神の国)に生まれ変わることになるのでしょう。
 これから「終末の大峠」にかけて起こる(と思われる)世界の大乱は、私たちの魂を最後のふるいにかけるための地球的行事だと見ることができます。恐怖心に駆られる必要は全くないのです。「お天道様が見てござる」という敬虔な気持ちをもって、日々の言動を慎み、「世のため人のために自分のできることを精いっぱいやらせていただく」という謙虚な心の姿勢で生きることが大切です。本日の文章はそのように解釈していただきたいと思います。
 
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