では〈身魂磨き〉とは何か。
〈身魂〉とは魂の意ではなく、肉体(身)と霊魂(魂)の双方を指したものである。この両者を磨くというのは、古い神道の考え方である。ここでは霊魂(魂)の潔斎について考えていこう。
人によって魂(心)には一種の癖あるいは個性がある。心理学的にいえば、自我がかぶる仮面(ペルソナ)やコンプレックスである。
出口王仁三郎は、「個性は霊界に持ってゆくもので、個性を洗練し養成するのが人間の肉体生活である」(『玉鏡』「個性」)と述べている。
人間は螺旋の階段を昇りながら向上してゆく。よく自分がクリアしなければならない課題だと薄々気づいているにもかからわず、それから逃避して、たとえば職場や交遊関係を替えたりしても、また、同じ問題が浮上するような事がある。たとえ一時はよくなっても時間を置いて、そして、時には忘れた頃にそれはやってくる。
出口王仁三郎は、その個性(癖)は信仰による智恵によってのみ矯正されるのだとするが、それはこういうことだろう。
いわゆる人生論なるものは、海で譬えれば表面の波にすぎない。生存難に追われ、まるでサーフィンのように、その波をどれだけうまく乗りこなすかという処世術だけが人生だと勘違いされている。しかし、たとえ怒濤が逆巻こうとも、その下には静かで大きな海流が流れているのみである。この大いなる意志の実在を認め、進展・向上してゆく気持ちがなければ、癖(個性)が直らないということだろう。
また、出口王仁三郎は、〈身魂磨き〉を剣の錬磨に譬えている。つまり、砥石にかけて研ぐと、どろどろの汚物が出、剣そのものもまったく汚れて光を失うが、磨き終わって研師がさっと水をかけると、鉄をも断つ名剣となるのである(『玉鏡』「身魂磨き」)。
東洋医学でも、瞑眩(めんけん=目がくらむこと)という現象がある。
孔子は『書経』の中で、「薬瞑眩せざれば即ち病癒えず」と著しているが、病気が快方に向かうとき、最後にもう一度、悪化したかに見える症状がある。これを瞑眩という。剣を研ぐ際の汚れも同様であり、螺旋階段的に発展する際にも、この瞑眩現象が起こる。前向きに発展しようと思えば、必ずその過程でさまざまな苦難と葛藤がある。それは他人から見れば見苦しく見えるかもしれない。しかし、それを恐れて現状で止まっていては何の発展もない。そして、水をさっとかけてもらえば、次の段階に発展している事を覚るのである。
|