個人的な自我を超えた意志
どの時代の宗教的な教えも、「自我を超越した意志の力は、私たちが自己中心主義を克服して自分の中のより高い部分から発する行動へと移行した時に生じる」と言っている。インドの聖典、バガヴァッド・ギータには、アルジュナという戦士が利己的な欲望と結果に対する執着を捨てることによって、強力な神の道具になったという話がある。
道教の教えでは、生命エネルギーに集中し、思考を静め、外部からの報酬を気にしないようになれば、私たちは日々の仕事に卓越してより深い自分の本質、つまり「道」を表現することができるとされている。道教の賢人、荘子は次のように言っている。
大工の名人、慶は楽器立てを作るために木をけずっていた。でき上がると、その作品はまるで人間業とは思えないほど見事な出来栄えだった。魯侯が彼に質問した。「お前の業には、どんな魔法があるのか?」。
「魔法などございません」と慶は答えた。「でも、こういうことはございます。このような楽器立てを作る時、私はまず、自分の生命力が減少しないように守ります。そして、心を完全に静止させます。3日間、この状態でいると、私は手に入る報酬のことをすっかり忘れます。5日たつと、私は自分が得る名声のことを忘れます。7日たつと、私は自分の手足と胴体を忘れます。それから宮廷についても何も考えずに、私の手は集中し、気を散らせる外部の物事はすべて消え去ります。私は山に入り、適当な木を探します。あとで作品に仕上げてゆくために必要な形を内に持っている木です。私は心の目に台の形が見えてから、仕事に取りかかります。それ以降は何もありません。私は自分の生まれ持った能力と、木の生まれ持った本質を一つにするだけなのです」
スポーツ、武道など、日常的な物事からこうした意志の力に関する身近な例を挙げてみると、行なっていることに完全に集中し、一心不乱になっている時にこうしたことが生じるということがわかる。アメリカの心理学者、チクセントミハイは「流れ」と彼が呼んでいる活動について何十年も研究を続けている。彼はこれを「社会的強制と直接的報酬を伴わずに生じる、新しいレべルの思考と行動への移行」と規定している。
チクセントミハイによれば、「流れ」の主たる側面は、深い集中力、目的の明確さ、時間感覚の喪失、自意識の無さ、そして自分を超えた意識などである。
「神の恵みの風は常に吹いている」とインドの神秘家、シュリ・ラーマクリシュナは言っている。
「しかし、それを捉えるためには、私たちは帆をあげなければならない」。
通常の域を超えた力にゆだねることによって、私たちは普段の自分の意志力よりも大きな強さと行動を実現できるのだ。この可能性は、「私の力ではなく、神の意志が行われますように」という祈りの中に現れている。
ジョージ・レナードはマイケル・マーフィーとの共著、『私達に与えられた人生』という本の中で次のように言っている。
「神の恵みや『完璧なリズム』の一瞬は、努力することとしないこと、目標を定めることと手放すことの、あり得ないような結合から生まれる」
つまり、明確な意図を持ち、しかもエゴを捨てることが、こうしたレベルで生き、また奇跡的な出来事を創造するために必要なのである。
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