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 「国家破産」以後の世界
 藤井厳喜・著  光文社
 
 
 国家破産とはなにか?

  われわれが暮らす日本国が「国家破産」(=債務の支払いができなくなること)するのは、もはや避けられない事態になった。というか、すでにもうこの国は崩壊している。
 今回は、「では今後、日本はどうなるのか?」ということに関して、筆者の専門分野である「世界政治の観点」から考えてみたい。
 つまり、本書では、「日本の国家破産がどのようなかたちで訪れるのか」を、洋しくシミュレーションするが、さらにより広く世界の情勢を考えたうえで、「今後の日本と日本人の生き残り方」を問うてみたいと思う。
 まず、「国家破産」について確認しておくと、それはひらたく言えば、われわれの暮らしが貧しくなることである。
 世界第2位の経済大国が崩壊し、2流国、いや3流国に転落するわけだから、当然、われわれ国民の暮らしも2流、3流に落ちるということである。それは、借金が払いきれなくなって破産した一般の人間を見れば、容易に想像がつくだろう。
 つまり、もう海外旅行などには行けるはずもなく、贅沢品を買うなど論外で、毎日がその日暮らしになるということだ。それでも、職がある人はまだいい。おそらく、国家破産以後は失業率が20%を超えるから、街にはホームレスがあふれ、失業者はお腹をすかして道をさすらうだろう。当然、犯罪は増え、街は荒廃する。まさに第2次大戦後にあった復興期の街の光景がよみがえるのだ。
 しかし、それでも、そんなことはたいした問題ではない。
 あの第2次世界大戦 のときは、国民の多くは命も財産も国家主権も、ほぼすべてを失ったのだから、それと比べれば、単に貧乏暮らしに耐えればいいだけだ。
 だが、ここで忘れてはならないのは、今度ばかりは同じ間違いをくり返さず、この国を復興させなければならないということである。国家破産は、日本人が国家に対する愛国心を失った結果でもあるが、それ以上に日本がこれまで哲学なき資本上義をやり続け、すべてを先送りし、問題を解決せず、場当たりで対応してきた結果でもある。だから、これをまず改めなければならない。
 ひと口で言って、この国の社会と経済のあり方は、欧米とはまったく違っている。資本主義と言ってはきたが、それを根本から支えるべき学問(サイエンス) はなく、経済学者は一部を除いて、国家破産を救う処方箋をもっていなかった。つまり、この国には、サイエンス(学問)がなかった。
 経済学はサイエンスのうちの社会科学に属している。だから、処方箋は存在していた。国家破産を招いたのが経済の病理とすれば、それは合理的な手術で取り除くことができたのだ。実証可能な方法、つまり誰もがそれを使えば必ず同じ結論に達する方法により、サイエンスは確立されてきたからだ。
 が、誰もそれをせず、世に言うエコノミストの99.9%は、このことを警告しなかった。だから、日本は財政赤字を山のように積み上げ、とうとう「打つ手なし」となって、国家破産を迎えるしかなくなったのである。不思議なことに 日本では、政治家も官僚も学者も、その局面、局面で、できそうもないことを言うだけで、問題が解決すると思い込んできた。しかも、国とその国民を愛するという人間として当たり前の心をもっていなかった。
 だから、今度こそ、この姿勢を改めて、本当の愛国心を復活させ、サイエンスに基づく社会と経済をつくり直さなければならない。単に「もう一度頑張ろう」という話ではない。
 じつは2001年の時点で、すでに欧米のメディアは「なぜ日本は自滅の道を歩もうとしているのか」と警告を発していた。小泉首相が登場して始まった「構造改革」が、まったくの根拠なきものと知った彼らは、日本の行く末を本当に心配していた。
 『フィナンシャル・タイムズ』(2001年12月31日)は、「東京に流れる危ないタンゴ」という記事を掲載し、その記事の最初の一節に、次のように書いた。

 その気味の悪い冗談は、経済界のなかを駆けめぐっている。
 アルゼンチンと日本の違いはなにか? 5年間。

 おそらく、この国の運営者である官僚の一部は経済の本当の姿を知っていただろう。そして、彼らは、日本が破産することもわかっていただろう。しかし、あまりに政治家がバカなので、真剣に伝えようとはしなかったのではないか? バブル崩壊以後、「改革!改革!」と叫んで登場した改革者は、すべてが愛国心もサイエンスもないニセ改革者であった。だから、何万、何百万、何千万語を費やしても、日本は立ち直らず、とうとう最後の時を迎えるのである。
 ひるがえってわれわれ自身も、たいした危機感をもたず毎日の生活に追われるだけだった。
 これでは、国家破産が回避できるわけがない。
 アメリカではすでに「やがて日本が迎えるであろう国家破産」に関してのレポートがいくつもつくられている。デイビッド・アッシャーの「日本経済再建計画」、通称「ネバダ・レポート」と言われるIMF (国際通貨基金)の破産処理計画などだ。これらの内容は本文でふれるが、ここで言っておきたいのは、アメリカ側が、「日本は、世界でも倫理と秩序がとくに強い国だから、少々のことでは暴動は起きない」と考えていることだ。
 つまり、国家破綻以後の日本では、思い切った荒療治(=外科手術)が行なわれる。当然、公務員は特権的地位を失い、大幅にリストラされる。国民は財産の一部を没収され、年金もカットされる。今の年金制度が完全に破綻しているのは、ご存知の通りだ。また、日本を破産に導いた政治家や官僚などの旧指導層は追放されるだろう。
 このときは、日本の全産業はほぼ「アメリカの下請け」となり、国家自身も下請け国家となるわけだ。自分たちで改革ができずに沈没したのだから、こういう事態を逃れることはできない。韓国がかつてIMFの支援を受けたように、わが国もまたTMFの経済占領を受け入れるしかない。そして、彼らの示す処方箋にそって国家再建するしかないのだ。
 しかし ここから、私たちがしなければならないのは、今度こそ本当に独立することだ。そして、そのときに必要なのが、前記したように本当の意味でのサイエンスと愛国心を持つことなのだ。明治の創業期 のように大きな志を抱いて、21世紀以降にふさわしい「未来国家」をつくりあげなければいけない。
 はたして、いまの日本人に国家破産を受け止め、それを乗り越えて国家を再建する強い意志と志があるだろうか? もしないとすれば、日本はこの先、永遠の漂流を続け、2流、3流国家として、長期にわたって落ちぶれていくだけだろう。 
 これは、いま生きてこの本を読まれているあなただけの問題ではない。これからの若い世代、そして今後生まれてくるはずの次の世代を含めて、われわれ日本人全員の問題である。
 かつて『日本沈没』(小松左京 光文社 1973)というベストセラー小説があった。これは、日本列島が海の底に沈み、日本民族全員が難民になってしまうという衝撃的未来を描いたものだ。そこにはそれ以上に衝撃的なことが書かれていた。
 日本人は難民として外国人と共存していこうなどとは考えない。それよりも、沈みゆく母国と運命を共にしたいと願う民族的特性をもっている。だから、運命を無定見に受け入れ、積極的な改革や治療を望まず、ただ、奇跡を待つだけだ――というのだ。はたして本当にそんなことになるのだろうか?
 『日本沈没』と同じようなテーマで、最近読まれている漫画に、かわぐちかいじ氏の『太陽の黙示録』(小学館)がある。これは、日本が未曾有の大震災に襲われ、南北に分断される。そして、北半分が中国の、南半分がアメリカの庇護の下に復興をとげていくという、壮大な近未来物語だが、ここでは、民族の誇りをもったまったく新しい日本人像が提示されている。
 『日本沈没』でも『太陽の黙示録』でも、日本崩壊は大規模な自然災害によってもたらされるが、これを人工災害に置き換えれば「国家破産」ということになる。したがって、この2つの物語は、フィクションとはいえ、われわれの未来に大いなる警鐘を鳴らしてくれている点で必読である。
 はたして、われわれは小松左京氏が描いたような未来を生きるのか? それとも、かわぐちかいじ氏が描く未来を生きるのか?
 筆者には、どちらとも言い切れない。ただ言えることは、小松左京氏的な未来においては、この国は本当に沈没するということだけだ。
 ここで、誤解している方もいると思うので、はっきりさせておくが、「国家破産」は[破滅]ではない。また、競馬や株のような「予想」でもない。筆者が読者のみなさんに提示するのは予見できる「未来」である。そして、それはもう目前に迫っているという事実だ。
 そのとき、あなたはどうすべきなのか?
 どうか筆者とともに、真剣に考えていただきたい。
 
 
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