アラヤ識
「阿頼耶識(アラヤシキ)」という言葉を聞かれたことがありますか?
多分、ご存知の方もあるでしょうが、これは、大乗仏典の根本的教義「唯識学」の中に出てくる言葉です。
「アラヤ識」というのは、現代的な言い方をするならば「深層意識」「潜在意識」または「無意識的意識」ということに当たりましょう。しかし、アラヤ識は確かに心下意識的なものを意味するとしても、その力は、はるかにその範疇を超えるものです。なぜなら、仏教哲学ではこれを、「万象を造り出した根元的潜在勢力」と規定しているからです。「アラヤ」というのは「貯蔵する」ということで、「識」は「意識」ですから、「アラヤ識」は「貯蔵しておく意識」ということになります。
では何を貯蔵しておくかというと、それは「思念の記録」を貯えておくのです。これを「業」(カルマ)といいます。この業はアラヤの中で、ある期間熟成されると、現実体験となって現れるのだ、すなわち、あらゆる宇宙的存在はこのようにして出現するのだ、としているのです。あらゆる宇宙的存在を出現させたのだから、当然、人間もその内に含まれます。
そして、このアラヤという意識は、人間を出現させた後も、人間の心身の内に属していて、その生命活動をもって、人生という現象を創造しつつある、というのです。アラヤ識を現代風にいうならば、それはコンピューターのような働きをするものとも考えられます。アラヤ・コンピューターの中には、過去に集積された記憶が一杯つまっております。
この記憶は単なる記憶ではありません。それは、未来において、それと「同類」なるものを外界つまり人生において実現させようという潜在勢力を有している記憶なのです。この記憶のことを仏教では「業」といいます。そして、私たち人間の未来は、この業の集積をもって書かれた台本にしたがって展開しつつあるのです。
しかし、この台本は決して固定してしまっているものではありません。なぜなら、日夜、私たちは気がつくと気がつかないとに関わらず、自分のアラヤ識の中に新しい情報を送り込んでいるからです。それは新しい記憶であり、新しい業であり、これによって人生の台本は常に少しずつ修正されつつあるのです。
この新しい情報とは、つまり「原因」です。そして、それがアラヤ・コンピューターを経て、やがて、「結果」となって、未来に現れます。この原因の「因」と、結果の「果」を合わせて、仏教では、「因果」といいます。すなわち、仏教とは、この「因果の法則」を重視する教えなのであります。新しい情報、「因」がアラヤ識に入りますと、未来の「果」が出現するための「縁」が生じます。これを、「因縁生起」といい、略して「縁起」と申します。
一口にいえば、仏教とは、この縁起を説いた教えなのです。私たちは、新しい情報を日夜、自分の潜在意識コンピューターに投入しつづけております。問題なのは、多くの人々は、この作業を無意識におこなっていることなのです。ですからそこには、「情報の選択」ということがなされてはおりません。そして、否定的な思念、つまり、怒り、恨み、悲しみ、愚痴、不平などの情報が、自分では気がつかないままに、そこに投入されつづけるのです。
こうして、その人の未来には「失敗」「貧乏」あるいは「病気」「災難」などの結果が現れてくるのです。縁起の法則を知り、自己のアラヤに好ましい思念を投入しつづけることは、非常に重要です。それは、新しい良い因を縁づけることだからなのです。
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