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 沈黙の春
 レイチェル・カーソン・著 新潮文庫
 
 
 べつの道

 私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない――この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》という認識が終始光りかがやいている。生きている集団、押したり押しもどされたりする力関係、波のうねりのような高まりと引き――このような世界を私たちは相手にしている。
 昆虫と私たち人間の世界が納得しあい和解するのを望むならば、さまざまな生命力を無視することなく、うまく導いて、私たち人間にさからわないようにするほかない。
 人におくれをとるものかと、やたらに、毒薬をふりまいたあげく、現代人は根源的なものに思いをひそめることができなくなってしまった。こん棒をやたらとふりまわした洞穴時代の人間にくらべて少しも進歩せず、近代人は化学薬品を雨あられと生命あるものにあびせかけた。
 精密でもろい生命も、また奇跡的に少しのことではへこたれず、もりかえしてきて、思いもよらぬ逆襲を試みる。生命にひそむ、この不思議な力など、化学薬品をふりまく人間は考えてもみない。《高きに心を向けることなく自己満足におちいり》、巨大な自然の力にへりくだることなく、ただ自然をもてあそんでいる。
 《自然の征服》――これは、人間が得意になって考え出した勝手な文句にすぎない。生物学、哲学のいわゆるネアンデルタール時代にできた言葉だ。自然は、人間の生活に役立つために存在する、などと思いあがっていたのだ。応用昆虫学者のもののやり方を見ると、まるで科学の石器時代を思わせる。およそ学問とも呼べないような単純な科学の手中に最新の武器があるとは、何とそらおそろしい災難であろうか。おそろしい武器を考え出してはそのほこ先を昆虫に向けていたが、それは、ほかならぬ私たち人間の住む地球そのものに向けられていたのだ。
 
 
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