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 愛と許しを知る人びと
 曽野綾子・著 海竜社
 
 
 神に下駄を預ける

 「父よ、もしできることならば、この杯がわたしの前を通り過ぎるようにしてください。しかし、わたしの思いどおりにではなく、あなたのおぼしめしどおりにしてください」(マタイによる福音書26・39)
 これは、死を間近に控えたイエズスの、ゲトセマニの園に於ける祈りである。ここは、イエズスの人間性が前面に出てきた個所として有名である。このゲトセマニのイエズスは、刑の執行が明日だと告げられた死刑囚と何ら変わるところがない。
 それは、苦しい時間である。苦痛はまだ未来のものだが、その予感は現実の苦しみよりもっと激しくその人を責め苛(さいな)む。それほど苦しむならいっそのこと死んでしまいたい、と人間は望むことがある。まだ30数歳の死だといわれる。そこにこの悲痛な、そしてきわめて人間的な祈りの根源がある。
 イエズスは「マルコスによる福音書」では、父なる神に「アッパ」と呼び掛けている。これは 「おとうちゃん」というようなごく一般的な愛称で、その親しさに満ちた父に自分の死や苦しみを取り除いてくださいと頼んでいる。しかし、もしその苦しみが神の望んだ道であり、それが自分の使命だと神が言われるなら、あなたのおっしゃる通り私は致します、とも言っているのである。
 人間は自分にふりかかった運命を、知りもせず、往々にして肯定も承認もしない。それどころか、全く別の生き方を願う。しかし、所詮人間は自分で運命を左右することはできないのである。だから、神から与えられた使命が、たとえ苦しいものでもいつか受諾する気持を持つことができるならば、世界はずっと変わってくる。人知に限りがあることを知りつつ、自分の一生をできるだけ軽く見て、神に命じられたことをすることに、忠実の証と気楽さと美を感じるようになる。

 神が望むことを実現する

 「それゆえ、あなたがたに言っておく。命のために何を食べ、何を飲もうか、また体のために何を着ようかと、思い煩ってはならない。命は食べ物にまさり、体は着る物にまさっているではないか。空の鳥を見なさい。種をまくことも刈り入れることもせず、また倉に納めることもしない。それなのにあなたがたの天の父は、これを養ってくださるのである。あなたがたは鳥よりもはるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思い煩ったからといって、寿命を一刻でも延ばすことができるだろうか。(中略)……あすのことは、あす思い煩えばよい。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6)
 ここを読んで、これはなげやりな生活をすすめているのですか、と言った人がいる。しかしこれは全く逆である。むしろここには、この地球上の総ての生が、神の深い配慮のもとに営まれていることが示唆されている。私たちが当然受けるべき権利と思っていることも、実は一人一人に合うようにきわめて精巧に作られた特製の人生である。神は人間を一人一人覚えている。
 ただ、そこに、人間が希望することだけが、その人にとって必ずしもよい道ではない、ということがある。時に苛酷と思われる運命を与えられる人がいて、私たちはそのために悲しむが、ほとんどの人がその運命を受けとめ、その中に積極的な意義を見つけ、困難に耐えて生きる姿そのものによって、他の人々に大きな励ましを与えて行く。しかし当人はそのことに気づいていない時も多い。
 「成せば成る」という言葉が東京オリンピックの時に、熱病のように人々にもてはやされたことがあったが、私はこの言葉を聞く度に、聖書のこの個所を思い出していた。私たちは自分では何一つ完全になし得ないことを知る時に、かえって人間を保つのである。自分の運命は、希望するものを何が何でも得ようとすることではなく、神が望むことの実現にしかあり得ないことを悟るからである。
 
 
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