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 出口王仁三郎の神の活哲学
増補版
 十和田龍・著 お茶の水書房
 
 
 霊界は宇宙の実体界

 霊界は宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界である。唯物論者は、霊界とか天国は人間の想像力の産物、幻想だという。つまり霊界は、現実の世界を頭の中で移写したものだと逆向きにとらえる。霊界を見てきた人がいるといえば、「そりゃ幻覚だ」で片づける。
 王仁三郎よれば、霊界と顕界(現界)の間は相応の理によってつながる。つまり現界にあったことは霊界にあり、霊界にあったことは現界にそれ相応のものがあるという。
 「現界すなわち自然界の万物と、霊界の万物との間には、惟神(かんながら)の順序によって相応なるものがある。また人間の万事と天界の事物との間には動かすべからざる理法があり、またその連結によって相応なるものがある」(『霊界物語』48巻10章「天国の富」)
 王仁三郎によれば、自然界とは「太陽の下にあって、これより熱と光を得る一切の事物」だ。この自然界は、総体の上からも分体の上からも、ことごとく霊界と相応している。だから自然界の有力因(原動力)は霊界にある。
 神は瞬時も休むことなく活動しているが、それは目的があるからだ。目的のことを、王仁三郎は「用(よう)」と表現する。用の字義は「はたらき」で、働きには必ず目的がある。その用の結果が実現する。 たとえば日常の細々とした用の積み重ねが、家庭を形づくり、生命をはぐくむ。虫は虫、鳥や獣はそれなりのやり方で用を実現する。この世に存在する限り、一つとして不要のものはないという。
 現界は霊界の移写であり、縮図だ。霊界の真象をうつしたのが現界だから、現界のことを称してウツシ世という。たとえば3776メートルの富士山を数センチ四方の写真に写したとする。その場合、現実の富士山は霊界で、その写真が現界。写真の富士山はきわめて小さいものでも、現実の富士山は大高山だ。だから霊界は人間の夢想もできぬ広大なものである。
 わずか一間四方ぐらいの神社の内陣でも、霊界では、ほとんど現界人の見る十里四方はあるという。現実界の事物はすべての霊界の移写である。霊界は情動想念の世界だから、自由自在に想念の延長ができるからだ。

 
人は肉体と精霊でなり立つ

 現界に物質的な姿や形があるように、相応の理により、霊界にも霊的な姿や形がある。人間の精霊にも霊的な容貌、姿態があり、それを霊身という。
 あらゆるものに内面と外面があるように、人間の精霊の想念にも内面と外面があり、それを内分と外分という。内分は霊魂そのものの志すところ、想うところで、いわば真実の心、偽りのない本心のことである。外分は現界の事物に影響を受けた肉体的感覚、記憶、知識、その知識をもとにした言語、動作などのことで、表面の心、本心を覆い隠す心といってよい。
 肉体が肉体的五官を持っているように、霊身は霊的五官をもっている。この霊的感覚は、死後に機能するだけではなく、生きている間も機能する。それならば、我々はどうして霊界のことが感じられないのか。王仁三郎は「肉体的五官に妨げられ、その機能が鈍っているからだ」という。だが、中には霊的感覚の鋭い人がいる。霊眼で霊界の事物を見たり、霊耳で霊界の音や声を聞く人もある。
 人間の精霊には、霊的な内分と現界的な外分の二面が備わっている。人間はその内分から見て生きながら霊界にいるが、その外分から見れば現界にいる。だから人間は霊界と現界とを和合させる媒介者である。
 ところが一口に霊界といっても、高天原もあれば根底の国もある。高天原からは清く明るい天国的な内流が注がれており、根底の国からは陰湿で暗い地獄的な想念が押し寄せてくる。問題は、人間がそのどちらと相応するかということだ。高天原に相応するのも、根底の国に相応するのも、各自の自由意志である。生きながらその籍を高天原に持つときは、それを神界の相応者という。
 
 
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