世界の現象は全て人々の生き方の産物だ
世界中に大きな天災が続出し、異常気象が地球を覆っている。世界各地を地震が襲い、ヨーロッパ各国は今世紀最大の洪水に見舞われた。科学者がデータを集め、額を寄せ合って議論し、手持ちの科学技術を駆使しようが、解決策は提示されない。文明や科学には、限界があることも知ってしまった。
日本を震憾とさせ、これからも永く人々の心に残るであろう「阪神大震災」のような自然の脅威の前には、人間は翻弄され、ただオロオロと従属するしかないのか。多くの人々は、日常の生活に追われている。人々にとっては、今の目の前の現実こそが最大の問題のようだ。決して不安がないわけではないが、とりあえずは解決を先送りにしてしまう。「何かに縛られるのは嫌だ」「もっと主体的に生きたい」と言いながら、結局は現実というものに隷属しているのではないか。だが、もはやそれだけでは生きられない時代になったのだ。
一般常識からすれば、実生活と地震などの天災の間には相関関係はない、と思われている。しかし、真実は、多くの識者が説くように、地球上で起こる全ての現象は人間と非常に深い関係にあるのだ。
科学は、人間が豊かで快適な生活を送れるようにと発達してきた。しかし、一つの発明、一つの革新がなされるたびに、それは地球を蝕んできた。人間が勝手に快適さを追求し続けてきたツケが、今や全人類を危機の淵に立たせているのだ。
地球そのものが一つの生命体だとする、あの『ガイア仮説』を発表したJ・E・ラブロック博士も、英国内では狂人扱いだと聞く。環境問題のみならず、地震さえも人間の、つまりあなたの生き方の産物だ。このことは曲げようもない真実なのである。あなたの人間性や行ないの善悪ではなく、あなたの生き方そのままがあなたに現れるのだ。正しい心とか生きる姿勢ということとは違った、もっと基本的で具体的なことである。
総じて、現代の人間社会は、その根底から狂いが生じてしまったような、そんなありさまだ。天災のみならず、環境問題、政治、経済、そして社会問題化している“いじめ”まで、問題の根は深い。
「大震災」で我々の生きざまが試された
現代は、社会全体が何かを失うことを恐れ、疎外感に苦しんでいる。同時に、屹立(きつりつ)した「個」が喪失した時代であり、未成熟な人間が溢れてしまった時代なのだ。つまり、“見えない時代”になってしまっているのだ。
電車で子供が騒いでも、親は子供を叱らない。たとえ叱ったとしても、「隣のおじちゃんに叱られるからやめなさい」というような言い方しかしない。「それはいけないことだからやめなさい」と、なぜ言えないのか。
昔の親というものは厳しかった。その代わり、優しい部分も必ず持ち合わせていた。厳しさと優しさの絶妙のバランスのなかで、親とはどういうものであるかを子供は体感し、成長していったものだ。他人のせいにして子供を叱らない親は、自信がないからだ。見えないから怖いのだ。人間が、真に主体的に生きていないのである。バランスを取るといっても、マニュアル本の受け売り、周囲の目をうかがいながらのバランスでしかない。それは、見せかけだけのチグハグなバランスだ。
しかし、あの「阪神大震災」ではどうだったか。恐怖とともに、血も涙もない大自然の猛威に翻弄されるそのなかで、人間としての尊厳や助け合うことの必要性を日本中が見せつけられた。いや、世界中が見せつけられた。日本政府の対応が遅々として進まないなか、世界各国からは援助申し出が続々寄せられた。
罹災された人々はもちろん、幸いにして被害に遭わなかった我々も、水のありがたみ、自然の恩恵をその恐ろしさとともに再認識させられた。こういうときに、バランスが真に元に戻るのだ。人間の本質としての“生きる意思”が本来的な目的を識るのである。このとき現代人は、喪失の怖れから脱却し、疎外感に打ち克つことができるのだ。
理解しやすく言うと、人間の身体に備わっている自然治癒力のような作用が、人間社会も含めた壮大な地球上で働くのだ。そのときあなたは、主体的に生きてきたかどうかが試されるのである。しかしなお、不安や嫉妬や恐怖のみが無自覚に頭のなかを駆けめぐる者は、再び大自然に翻弄されることになるだろう。
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