人は必ず陰徳を積むべし
「人は必ず陰徳を修すべし」、人は必ず人に知られないところで徳を積むべきである。どんないいことをしても、それを人に知られるようにやったら、それは徳にはならぬ、というのである。人を助けるのでも、わざわざそのことが相手にわかるようにして人を助けるのは陰徳とは言わない。どういうところから、こういうことが言われるようになったか、わたしは知らぬが、しかし、徳を積むということは、剃刀の刃のようなものなのである。あるいは両刃の剣のようなものである。
それはいいことには相違ないのであるけれども、人間というものは、いいことと、悪いことには、必ず執着がつきまとうものであるから、いいことをすれば、いいことをしたという執念がつきまとうわけである。同じように、悪いことをすれば、悪いことをしたという、執念がつきまとう。悪いことをしたなという執念が起こる方は、これはまだ、悪いことをしてはいけないな、という方向に向いてくる可能性があるから、まだいい。ところが、いいことをしたときに、自分はいいことをしたのだという自己満足をいだくと、これはなかなか抜けない。いいことをしているのだから、どうしてそれを人に知られて悪いのか、と思うし、どうしたって人に知らせたいと思う。だから物騒なのである。
仏教は、世間の宗教の中で、もっとも心理的な宗教だから、人間の心理の、深い文(あや)まで見ている。だから、いいことをするときほど用心せよというのが仏教の原則である。いいことをするときは、恥かしいと思いながらせよという。それがないと、相手に負担を負わせることになる。それで陰徳ということを言うのである。
今の人は、こういうやり方を好まない。無条件では動かない。いいことをするときは、必ず人によくわかるように宣伝しながらやる。そういうのは陽徳というのであろう。陽徳は悪徳につながるということになる。陰徳でなくてはいけないのである。
世の中には「ついている」という人がある。これは陰徳を積んでいるからだと、わたしは思う。こっそり人に知られないところで、いいことをしている。それがちゃんと報いてくる。そこが人生というもののおもしろさなのである。
見えざる世界の力
陰徳を修すれば、見えないところでも力が加わり、見えるところでも利益があるものである。だから、泥でできた仏像、木に刻んだ仏像、土をこねてつくった仏像等々、たとえ粗末な仏像であっても、仏像は無条件で敬わなくてはならぬ。
お地蔵さまでも、観音さまでもあったら、そこを通るときに手を合わせて通られるとよい。ときどきは行って花や線香を手向けられるとよい。どんな粗末な仏像でも、仏像というものは信心によってつくられたもの、拝まなくてはならぬのである。拝めば拝んだだけの功徳があると、今のわたしは信じている。
首のとれた仏さま、鼻の欠けた観音さまなど道の端に放ってあるものを供養しているうちに幸せになるということは、たしかにあると思う。そうすることによって、その人間の、心も体も、生活も変わってゆくのである。しかし、それだけではない。もっと別なものが動いている。
それらの仏像には霊があると思う。お墓にも霊というものがある。だから、お墓の竿石は敷石などに使ってはいけないという。お坊さまはよく「この墓石は霊を抜いてあるから、あとは何に使ってもいい」などと言うけれども、そのお坊さまに徳がなかったら、抜いたつもりでも抜けていないということになる。抜けていないものを敷石などに使うから怪異が起きるのである。
人間の理性とか、合理的な判断とかで解決できないものが、この世にはたくさんあるのである。
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