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 超意識と人間の運命
砂生記宜・著 たま出版
 
 
 魔界の使命

 魔界は神界に相対する世界であり、神界に匹敵する力を持っています。すなわち、魔界も神であるということです。神界と違うのは破壊、混乱、消滅という負の力がはたらくことです。その魔界の神は人間を神の道へ導く使命を持っています。魔界はそのために存在しているのだと言っても過言ではないくらい大切な使命なのです。
 人間が神の道を求めるのは、魂が神界を求めるのですから当然のことなのです。しかし、神の道を求めるとはいっても、求めれば誰にでも与えられるほど安っぽいものではありません。それは命がけであり、真剣勝負なのです。しかも、人間の一生を賭けて掴むものなのです。それだけに、厳しい試練が絶え間なく与えられるということになります。
 この厳しい試練を与える役を全て引き受けているのが魔界であるということです。神を求める人間は掃いて捨てるほどいます。しかし、純粋に、しかも命をかけてまで求めるという人はほんの僅かしかいません。その選別をするには、人間の精神や肉体が耐えられる極限に近い苦しみや恐怖を与えなければなりません。多くの人が、それに耐えられずに脱落していきます。
 ここでいう厳しい試練というのは、俗に言われている宗数的な難行苦行のことではありません。日常生活の中での厳しさです。病気、不幸、災難、肉親との死別、倒産、破産、戦争、離婚、ケガ、孤独、等が次々と襲ってきます。このような境遇に立たされた時に、それを自分への試練として受けとるか、それとも神も仏も無いものかと、自分の人生を怨むかで全ては決定されてしまいます。
 人間は魂を磨くために生れてきたのですから、どのような厳しい試練が与えられても、それを感謝して受け止めなければなりません。大きな使命を持っている人ほど、その試練は厳しく長いものになります。その試練を受けながらも、想念を汚すことなく耐え抜いた人だけが、純粋に神を求める人間として認められるということになります。
 多くの人が辛さ、苦しさ、悲しさ、みじめさ、ロ惜しさ、淋しさ等の悪想念によって魂を汚し、地獄への道を歩んでしまいます。人間社会では、病気や不幸に見舞われて貧乏な生活をしていますと軽蔑とさげすみの目で見られます。しかし、順風満帆で恵まれた生活をしていますと人間は魂を磨く機会を失ってしまいます。人間として生まれて来る目的が「魂を磨くことにある」ということを理解できれば、恵まれた一生を送る人はむしろ不幸であると言うことができます。もっとも、同じ恵まれた生活であってもその人が、多くの試練をすんなりと乗り越えてしまうほどの高い意識を持っていて与えられるものであれば、それに勝るものはありません。
 魔界であれば、どの人間に見込みがあるか否かを見抜くのは簡単なことですから、見込んだ人間には次々と試練を与えます。それでいて駄目だと分かれば、容赦なく地獄へ堕します。見込みの無い人間、すなわち神の世界とは無縁の人間には一切関与してきません。そのような低次元の人間は、地獄霊や邪霊たちに任せておいて充分であるということです。魔界が試練を与える人間は、精神世界ではエリートであるということです。少なくとも、磨けば光る素質を持っているということです。
 このようにして魔界は、人間に厳しい試練を与えて本物の神の道を極める人物を育てていく、という崇高な使命を持っています。しかもこれは、神界と密接な協力関係を保ちながら行なわれることなのです。
 では何故魔界は人間に、これほどまで厳しい試練を与えるのかということです。それは、人間がそれほどまでに愚かであるということです。試練を与えられなくとも、人間が自覚して、神の道を外れることなく正しい道を歩んでくれるなら魔界も苦労することはありません。あまりにも人間の想念が汚れすぎているからこそ、神界も魔界も必要以上の労力を費やさなければならなくなるのです。親の心、子知らず、というのが現在の人間の姿なのです。
 
 
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