終末と再臨の日はいつか?
「前兆」としてあらわれるという、太陽や月や星など、自然現象の異変は、かならずしも字句のままとる必要はないのである。
これは旧約以来の聖書の伝統的な表現によったものである。新約でも、キリストの復活の50日目、聖霊降臨のとき、使徒のかしらペトロがエルサレムに集まった人々に説教した中で「終わりの日」にふれて、その日「上では天にふしぎなことをあらわし、下では、地にしるしをあらわす。日はやみに、月は血に変わる」といういい方をしている。(「使徒行録」)
しかし、もちろんなんらかの「しるし」はあらわれるにちがいない。
私としては、「終わりの日」――キリストが再臨するとき、天地万物がふるえ動くことは、じゅうぶんありうると思っている。終末と再臨の日。その日はいつ来るのか。
キリストはオリーブ山で、弟子たちにこう告げた。
「いちじくの木からひとつの教訓を学びとりなさい。枝がやわらかくなり、葉が出るようになると、あなたたちは夏の近いことを知る。それと同じように、これらのことが起こるのを見たならば、人の子が戸口に近づいていると知りなさい。あなたたちによくいっておく。今の時代が過ぎ去らないうちに、これらのことはすべて起こる」
キリストはさらにいう。
「その日、その時は、だれも知らない。天のみ使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる」
「子」とは神の子であるキリスト自身のことだ。キリストにさえ、その日、その時はわからないという。そこから、つぎの警告が出てくる。
「主人が不意に帰ってきたとき、あなたたちが眠っているのを見つけられることがないように、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。わたしはあなたたちにいっていることをすべての人にいう。目をさましていなさい」
「その日、その時」はだれも知らない。いわゆる「大予言」にも、それはわからない。わかっているというのは、いつわりである。それは、あすやってくるかもしれない。いや、きょうのことかもしれない。すでに、前兆はあらわれているといえる。
「終末はすでに始まっている」「私たちは終末の時代に生きている」というのはこの意味である。私たちは「目をさまして」その日がいつ来てもいいようにしていなくてはならない。
地球以外の星はどうなるのか
パウロは「テサロニケ人への第一の手紙」で、「終末は妊婦の陣痛のようだ」といっている。
それは「とつぜんおそいかかり、だれものがれられない」からであり、また、文字どおり「生みの苦しみ」であるからだ。 終末はただ終わってしまうだけではなく、つぎの新しいものを生みだすが、そのためには陣痛の苦しみをへなければならない。それがカタストロフ(破局)である。
終末は破局である。しかし、それですべて終わってしまう破局ではなく、それをとおしてつぎの新しいものが生まれる。だから、終末は破局をともなうといういい方のほうが正しいだろう。エルサレムの滅亡も、まさに破局そのものだった。世界の終末のカタストロフは、それ以上であるにちがいない。
「世界の終末」と書いてきたが、完成されるのは私たちの世界(地球と私たちの活動のおよぶ範囲の宇宙)だけでなく、神のおつくりになったこの全宇宙である。
「新しい天と新しい地」と「黙示録」はいっている。宇宙は、神がよしとされたとき更新され、完成される。この完成へ向けて、私たちの世界は終末を迎えるのであり、カタストロフはその陣痛だ。そのさきに待っているのは、新しい天と地なのである。
★なわ・ふみひとのコメント★ 終末の様相とその意味を理解する上で大変参考になります。私の終末観もまさに新約聖書に書かれているイエスの言葉の通りです。「破局は産みの苦しみとして必要なことであり、そのあとに新しい世界が始まる」ということです。
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