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 「いいこと」が次々起こる
心の魔法
ウエイン・W・ダイアー・著
渡部昇一・訳 三笠書房
 
 
 「思い」を設定すれば、宇宙が味方につく

 揺るぎない信念に至る唯一の道は、自分の心の声に耳を傾けることである。見えざる世界を信じられるようになると、内なる能力が開花して、望むものは何でも引き寄せられるようになる。
 ただし、引き寄せると言っても、それはもともと自分の一部なのである。だが、エゴは自分が孤立した特別な存在だと思わせたがるので、こうした考え方を受け入れるのに抵抗がある人もいるだろう。
 どんなに論理的な頭の持ち主でも、水を見て、それが水素と酸素が2対1の比率で合わさったものだと実感するのは不可能だ。水は流動する液体であり、見た目にはとても気体と関係があるようには思われない。分析してみて、はじめてその構成元素が水素と酸素だとわかる。
 自分がすべてのものに同時に存在するという考えも、これと同じことなのだ。
 自分の意識の中に見えざる何かがあって、それがすべてのものに同時に存在しているなどということは、ふつうに暮らしている限り、とても信じる気にはなれないだろう。けれども量子力学で生命の源を探っていくと、それが粒子ではなく波であり、すべての物質が同じような波でできていることがわかってくる。
 この一見「非論理的」な事実を受け入れたとき、あなたは宇宙にあまねく広がるエネルギーの存在を信じられるようになる。
 あなたは本質的に信頼されるべき存在であり、あらゆる場所に存在している生命力なのだ。この考えを心から信じることができれば、自分の人生に欠けていると感じているものも、創り出せるはずだ。結局、創造という作業は、そもそも自分の一部であるエネルギーをそばに引き寄せる技術ということなのだ。
 これはちょうど、無限の長さを持った糸の先に「求めているもの」があり、それは目には見えないけれど自分とつながっているようなものである。その糸をたぐり寄せて、願望や思い、夢を実現させられるかどうかは、自分を信じられるか否かにかかっている。
 これまで歴史に現われた聖人、指導者、導師、僧侶なども、同じようなアドバイスをしている。この永遠不変の哲学観念は、太古の昔から現在に至るまで、全人類を1つに結び付けるものである。
 この観念は、2つのことを示している。1つは、生きとし生けるものの内と外に、神が等しく存在しているということ。そして私達が今住んでいる世界とは別に、時間や空間の影響を受けないもう1つの世界があって、私達がその世界の住人でもあるということである。
 神があらゆる場所に存在するということは、神があなたの内にあるというだけでなく、あなた自身が神の分身だとも言える。またこのことは、あなたが自分の中に見出せる神以外には、神は存在しないということを意味している。
 こうした事実を感得するもっとも身近な方法は、祈りを利用することだ。「自分の中にも神が存在することを信じて祈る」という儀式を通じて、自分が望むことを実現できるようになるのだ。
 だが、そのためにはまず祈りに対する古い認識を改め、祈りという行為やその中身を、内なる視点から新たにとらえ直す必要がある。

 
“見返り根性”を捨てると「幸運の歯車」が回る

 私達は神のことを「天にある巨大な自動販売機」のように考え、祈りを対価にして願いをかなえてくれる存在だと思っている節がある。つまり、祈りというコインを入れてレバーをひねれば、神が何かを与えてくれるだろうと期待するのだ。
 だから、私達は神という名の自販機を崇拝するのである。私達は神を讃え、自分達がいかに崇敬しているかを示すことで、見返りを求めるのだ。
 こうした発想の前提になっているのは、神が私達の外にあり、私達が求めているものや必要としているものも、また外にあるという考えである。
 このような祈りは、むしろ神の存在感を薄めてしまう慣習だと言える。神を自販機扱いして祈りを捧げるのは、神が自分と別個の存在だという意識をますます強固にしてしまうのだ。
 私はむしろ、祈りの本質が神との交わりにあると考えたい。こうした見地に立つと、祈りを捧げることは、神が私達の呼吸のように身近な存在だと認識するための行為となる。つまり、祈りは神との一体感を体験するためにあるのだ。それは、内的な力の存在を実感する行為に他ならないのだ。
 したがって、本当の祈りとは、神に何かを期待するのではなく、自分自身が変わることなのである。そして私達は、祈りによって「神から切り離されている」という感覚を和らげることができる。
 幸福が外からやってくると考えるのは、自分が不完全であることを認めているのと同じだ。これは他力本願につながり、自分には見えざる神性が宿っていると信じることをあきらめてしまうことにもなる。
 ここで私が述べている祈りとは、何かを乞うことではない。私が真の祈りと呼んでいるものは、神の意志が自分を通じて現実化するのを求めることなのだ。
 私にとって祈りは個人的な嘆願ではなく、崇高な使命や喜びのため、人類全体の幸福のために存在する。このようなレペルの祈りは、大いなるエネルギーとの一体感から生まれるものである。
 
 
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