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 霊は実在する、しかし
近藤千雄・著 潮文社
 
 
 地獄は魂の不健康状態の反映

 では霊的に不健康な者はどうなるのか。その大半は実はその中間境での調整期間中に、本人の気づかないうちに、霊眼でも見えない霊によって、さまざまな霊波によって癒やされている。一種の心霊治療を受けているのであるが、もちろんそうした外部からの力によって地上時代の罪までが消されるものではない。
 自分が犯した罪は自分で償わねばならないのが霊界の鉄則である。霊界にかぎらない。地上でも同じことであるが、償いの機会がもてないうちに他界することが多いので、罪障の消滅は大体において霊界において行なわれることになる。
 ここで、分かりやすい例としてアルコールか麻薬の中毒患者の場合を考えてみよう。
 その種の患者は自分が正常な健康状態でないこと、その原因がアルコールなり麻薬であることは知っている。そして治療師によってそのことを諭されて、それで立ち直る人がいる。が、途中の禁断症状が耐え切れなくて、また逆戻りする人もいる。
 これと同じことが、罪に汚された魂にも言える。霊界通信によると、罰を与えるのは悪魔でもなく神でもない。神の使いでもない。罪そのものの中に罰が蔵されており、それが良心の呵責となって自覚されるのだという。
 それは禁断症状にも似ていよう。それに耐えかねた者が、虚栄心をはじめとするもろもろの煩悩に負けて、自己弁解を積み重ねていく。

 
因果律と親和力の法則

 宇宙の根本的摂理が2つある。その1つが因果律、つまり原因には必ずそれ相当の結果が生じ、その結果が新たな原因となって次の結果を生んでいくというもので、逆の見方をすれば、結果には必ずそれ相当の原因があるということで、偶然そうなったということはありえないということになる。
 またそれは寸分の狂いもなく自動的に作用し、いかかる信仰、いかなる儀式によっても干渉することはできないことを、高級霊が異口同音に語っている。自分が蒔いたタネは自分が刈り取るというもので、それは数学的正確さをもって作動する。いかに弁解しても良心の呵責が消えないのは因果律が絶対だからである。
 もう一つは親和力の法則、つまり“類は類をもって集まる”という法則である。地上でもある程度はその傾向を認めることができるが、けっして絶対ではないし、そう速やかでもない。これは物的五感によって営まれている地上特有の環境条件のせいである。言ってみれば鈍重でまどろっこしいのである。
 ここから相対性、対立性、両極性といった側面が生まれる。寒と熱、美と魂、清と濁、強と弱、男性と女性、こうした対照的なものが同居しているのが地上界の特徴で、そこから地上ならではの貴重な体験が得られる。
 “再生”つまりもう一度地上へ生まれてくることができるのも、その地上ならではの体験を求めさせるための神の配慮である。
 さて死後の世界においては親和力の働きが即効的となる。似た者同士が集まり異質の者は反撥し合う。かくして美しい界層はますます美しくなり、醜い界層はますます醜くなっていく。そして邪心に満ちた者ばかりが集まってその邪心をむき出しにし合いながら生活している。そこを地獄という。
 西洋にも東洋にも昔からいわゆる“地獄図絵”というのが伝えられているが、あれは人間が恐怖心を混じえて大ゲサに描いたもので、いかにも悪魔が憎しみに燃えて残虐のかぎりを尽くしているかの印象を与えるが、地獄といっても所詮は人間の魂の醜さと弱さの反映にすぎない。
 
 
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