神も仏もあるから悪いことが起こる
結局のところ、想念を現実化させるのは、その思いが強いか弱いかという問題に収斂(しゅうれん)されていきます。想念の強弱が願望実現の成否を分けるのであって、その願望の内容は関係ありません。したがって負の想念や悪い想念も、その念が強ければかないます。
しばしば悪が栄えるのは、それをなす人の思いが、よいことをなそうとする人の思いより切実で強烈だからです。「あいつのせいで仕事に失敗した」「あいつなんかケガでもすればいいんだ」「あいつさえいなければおれの成功は間違いない。病気にかかって倒れてしまえ」「どんなことをしても大金が欲しい」――こういった恨みや嫉妬、怨念のような“よこしまな”マイナス願望も、強烈に願えば叶ってしまうのです。
これについて、わたしはこう解釈しています。神は、すなわち宇宙無限力は、人間を人間としてつくった。神の操り人形としてはこしらえなかった。
だから人間に自由意思というものを与えた。人間がみずからの意思や判断で思い、行動し、その責任をとるようになさしめた。だから自由意思で悪を選択すれば、それもかなうようになっているのです。
神の力をもってすれば、人間を神の考えるようにしか行動できないようにこしらえることは容易だったでしょう。いいことしかしない、悪いことは絶対しない、人間をそのようにつくることなど簡単だったでしょう。しかし、それでは人間はロボットになってしまう。人間を人間たらしめるのは自由意思なのです。
だから自分の意思で物事をよくもできれば、悪くもできる。善行も行えば悪行もする。プラスの想念も発すれば、邪気も発する。自分の意思で自由にやれる。正邪、善悪どちらの行為も自分で選べるように、神は人間を創造したのです。
世の中には悪いことばかり起こる、まったく神も仏もない――そうではないのです。神も仏もあるから、悪いことも起こるのです。それが人間の自由意思にまかされているからです。
したがって、強く願えば悪いことも否定的な感情もすべて現実化されます。ただし、その責任もまた人間はおのれで引き受けなくてはなりません。悪いことをすれば、そのぶんわたしたちは悪い因をつくることになります。この因はどこかでかならず果となって、自分の身にふりかかってくるのです。
悪い念でだれかにダメージを与えたり、足を引っ張ったら、それと同様の、あるいはそれ以上の災難や災いがめぐってくるのです。いわゆる因果応報です。人を呪わば穴二つということわざは正しいのです。そして恩は倍返しだが、悪い報いは三倍返しなのです。だから悪い想念も強く願えばかなうが、それによってさらに悪い事態を引き寄せてしまう。長い目で見れば、悪徳や想念の悪用はマイナスの帳尻しかもたらさないのです。
よって悪いことはすべきでない、という修身くさい教訓をここで安易に述べるつもりはありませんが、因果応報のサイクルによって、悪いことをした人間もあくまでその自由意思のもとでよい方向に目覚めさせる。そういう機会を、神は人間のちっぽけな心のサイズではとても測りきれない大きな意思によって、人間に与えてくれているといえます。
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