生きているかぎリ必要なものは与えられる
しかし、かりにその二千円が十円だったとしても、わたしは困らなかったでしょう。必要なものは、かならずどこからか手に入れられる確信がわたしには揺るがずあったから。その人に必要なものなら、かならず神はそれを与えてくれる。それが必要な欲望なら天は間違いなくそれを認可してくれる――天意はそこにあるとわかっていたからです。
「ほしいものが手に入らないときは、手に入れられるものをほしがれ」という格言があって、これは実に正しい。わたしが必要なものをかならず手に入れてきたのは、必要なものしかほしがらなかったからだともいえるのです。
べつの言い方をすると、必要以上の欲をかかないかぎり、あなたがお金に困ることはないし、不足を覚えることもない。ですからもし、あなたがいま「足りない」と不足を感じているのなら、それは足りないのではなく、よけいなもの、本来、不必要なものをあなたがほしがっているからだと考える必要があります。
人間は必要なものに困ることはありえない――この確信があると、ものへのこだわりも希薄になります。お金のある人もない人も、それぞれ金銭への執着というのはなかなか消せないものです。なければほしいし、あればあったでももっとほしいと思う。でも、わたしにはそのいずれのこだわりもありません。ここにお金がたくさんあってもなくてもかまわない。
といってわたしは、聖人君子をきどっているわけでもなければ、欲望を否定しているわけでもない。「金は不浄で不要のものだ」といっているのでもありません。それどころか多くの人と同じく、人生にお金は必須のものだと思っています。少なくとも人に頼らず、自分と家族の生活を維持していけるくらいの「サムマネー」はだれにとっても入り用のものです。だから、わたしはお金というのは人生で何番目かに大切なものだと考えています。
でも、多くの人とちがうのは、大切なもの、生存に必要なものだからこそ、神の大きな意思はかならずだれにでもそれを過不足なく与えてくれること。そのことが原理的、かつ経験的に確信できていることです。したがってあくせく、むやみやたらにものや金をほしがることはありません。必要な雨ならかならず神が降らせてくれる。その理がわかっているから、ことさらに雨乞いの必要性を感じないということです。その点で、つまり執着から自由になっているという点で、わたしは「自在」なのです。
ずいぶんむかし、当時のお金で三万円という大金を知人に貸したまま、とうとう返ってこなかったことがありました。それでもわたしは、一度も催促をしなかった。返してほしいという気持ちもなかった。それで知人との仲が気まずくなったということもなく、その後も変わることなくつきあいを続けていました。
向こうがどう考えていたかは想像外ですが、わたしは貨した金が返ってこないのもひとつの理だくらいに考えて、とくにこだわる気持ちもなかったし、「あえて催促すまい」と自分の気持ちに無理をすることもありませんでした。それもまた一個の必要性のもとに、お金は自分の手元を離れていったのだろう――そう淡々と考えていました。しかし、おのれの欲を一つ消すことは、心の世界や霊的次元において徳を一つ積むことになる。もしくは、おのれの業を一つ消すことになる――そういう因果応報の理を信じてもいたから、貸した金が返ってこないのは現世的には(ソロバン上は)損かもしれないが、もっと大きな原理や高い次元に照らせば、それは損一方ではありえない。それはかつての業の消滅であり、次の得への原因ともなるものだ。
そういう確信もごく自然に胸の内にあったのでわたしは平然としていられた。お金が入ってくることにも出ていくことにも、こだわりを感じない無碍自在な心でいられたのです。
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