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 逝きし世の面影
渡辺京二・著  葦書房
 
 
 英国の商人クロウは1881年(明治14年)に木曽御嶽に登って「かつて人の手によって乱されたことのない天外の美」に感銘を受けるとともに、将来いつか、鉄道が観光客を運び巨大なホテルが建つような変貌がこの地を襲うだろうことを思って嘆息した。
 クロウは木曽の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに夕暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子ども連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走っていく。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。
 子どもたちは自分と同じくらいの大きさの子を背負った女の子も含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づきあいのよさと幸せな様子」を見てクロウは感動した。これは明治14年のことである。
 チェンバレンやウェストンはむろん、古い日本の死滅をほぼ見届けた時点で上のように書いたのである。だが滅亡の予感は、実はそれより遙かに以前、幕末開国期にこの国を訪れた異邦人によっていち早く抱かれていた。
 たとえばハリス(1804〜1878)が、1856年(安政3年)に下田玉泉寺のアメリカ領事館に「この帝国におけるこれまでで最初の領事旗」を掲げたその日の日記に、「厳粛な反省――変化の予兆――疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」としるしたのは、まさに予見的な例といってよかろう。
 彼は「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質の信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」せずにはおれなかったのである。

 ヒュースケンは有能な通訳として、ハリスに形影のごとくつき従った人であるが、1857年に次のように記した。

 いまや私がいとしさを覚え始めている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人びとの質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人びとが彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。

 ヒュースケンはこのとき、すでに1年2カ月の観察期間を持っていたのであるから、けっして単なる旅行者の安っぽい感傷を語ったわけではない。
 同様に長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケ(1816〜1866)が1859年、帰国に当たって次のような感想を抱いたとき、彼はすでに2年余を長崎で過ごしていて、この国の生活については十分な知見を蓄えていたのである。

 私は心の中で、どうか一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希った。しかし同時に私はまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった。

 異邦人たちが予感し、やがて目撃し証言することになった古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。
 死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻ってはこない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。
 フランス人画家レガメ(1844〜1907)の陳述を聞こう。レガメによれば、日本のほほえみは「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。そしてそれは金であがなわれるものではなく、無償で与えられるのである。
 
 
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