人はすべて神憑かっている
“霊能”が開発されてしまって、いわゆる“神憑かり”状態になる人物も、最近では増える傾向にあるようだ。このような霊媒体質者の神秘力を信じる人たちが集まって、集団を形成し、宗教的活動を行なったり、実際に宗教法人になってしまうところもある。
こうした霊能力にはよほど気をつけなければならない。霊眼(ビジョンが見えること)や霊耳(霊の声が聞こえること)には、間違いが多い。否、あえて言えば、低級霊による所産の場合がほとんどなのである。
とにもかくにも、人為的に神人感合に至らんとする鎮魂や帰神といった修法は行なうべきではない。また、霊性や身魂磨きのために、そうした修法を行なう必要もまったくない。
人間は誰しも、正守護神の次の段階として、本守護神という神的自分を持っている。その意味からすれば、誰でも“神憑かっている”状態にあるわけである。神的自分を持たない人間など一人もいないのだ。
日月神示にはそのことが次のように示されている。
人間は皆、神憑かっているのであるぞ。神憑かっていないもの、一人もおらんのぢゃ。(中略)霊人は人間の心の中に住んでいるのであるぞ。心を肉体として住んでいるのぢゃ。(中略)
人間の言う神憑かりとは、幽界の神憑かりぢゃ。ろくなことないのぢゃ。神憑かりでも神憑かりと判らん神憑かり結構ぢゃなあ。マコトぢゃなあと知らしてあるのにまだ判らんか。(『白銀の巻』第六帖)
いつでも神憑かれるように、神憑かっているように、神憑かっていても、我にも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百姓が己を忘れ、大地を忘れ、鍬を忘れている境地が、マコトの御霊鎮めであり、神憑かりであるぞ。(『月光の巻』第四十九帖)
本当の神憑かりとは、正守護神に復帰した人のことを言う。つまり、外流の影響を受けずに正流と想念的交流が常時行なわれるに至った人ということである。
高度な霊界になるほど、繊細で微妙な波長となるため、神憑かりといっても、自分にも他人にもわからないような、判別不明のものとなる。つまり、「無形の神憑かり」となる。そうなってこそ真の神憑かりであり、われわれはみな、かくあらねばならないのである。
日月神示にはさらに、次のように示されている。
仕事は行であるから、務め務めた上にも精出してくれよ。それがマコトの行であるぞ。滝に打たれ、断食するような行は幽界の行ぞ。神の国のお土踏み、神国から生まれる食べ物頂きて、神国の御仕事している臣民には、行は要らぬのざぞ。このことよく心得よ。(『日月の巻』第三帖)
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