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 人生の原則
曾野綾子・著  河出書房新社
 
 
 災害の中に慈悲を見つける
 ――自分の身に起きたことには意味がある


 東日本大震災後、時間が経つにつれ、貴重な手記がマスコミにも載るようになったが、その中で私の心に残ったのは、約三週間もの長い避難所生活をした後、どうやら家族だけで暮らせるようになった時、生活の態度が変わった奥さんを発見した六十代半ばの男性の投書だった。奥さんは元は暑さ寒さにも不平を言いがちであったが、今は何も言わない。食事の前にも感謝して手を合わせている。
 こんな体験をすれば人間は変わって当然だろう。お風呂に入れるだけでもありかたい。1メートルと離れていない所に他人が寝ていていつも気兼ねする生活から救われたのもありがたい。私流に言うと、心置きなくいびきをかき、おならができるようになったのだ。
 普通の生活では、私たちは自分の好きな食事を食べられて当然と考える。しかし避難所では、食事の好みも口にできない。一国の政府が被災者に、全く火を使わなくてもすぐに食べられるパンやお握りなどを、清潔な状態で(つまり袋入りやラップに包んだ状態で)配れるということは、実は並々ならない国力のあらわれなのだが、避難所で毎日毎日パンばかり、お握りだけを配られていると、見ただけで食欲がなくなって来る、と感じるようになっても当然である。
 私は料理が好きなので、残り物の処理はかなりうまいつもりだ。前日の残りのお冷やご飯などがあると、塩鮭の切れ端、なめこの味噌汁の残りなどを使って、おいしい雑炊を作る。我が家は塀の傍でミツバも作っているし、卵を一つ落とせば残り物の雑炊もちょっと豪華な見かけになる。人間は食べたい時に食べたいものを作って食べられる、ということが最高の贅沢なのである。
 私たちは普段得ているものを少しも正当に評価していない場合が多い。
 まず第一に健康で食欲があることのありがたさである。今世間の関心はスリムになるダイエットの話ばかりだが、医師に言わせると、中年以後は、万が一消化器系のガンになる場合も予想して、常に痩せすぎでない適切な体重を保つことも大切なのだそうだ。ガンの手術をすると、通常十キロから十二、三キロは痩せる。十キロ以上痩せても、どうやら「人間をやっていられる」体重を、健康な時から保持していなくてはならない。もともと四十五キロしかない人が三十五キロかそれ以下の体重になったら、ガンが治っても健康を保つのに危険区域に入る。やや高齢者だったら、痩せて皺だらけにもなる。
 健全な食欲に恵まれているということは、健康の基本だろう。そしてさらに、その食欲に合わせて食べたいものを食べられる社会的、経済的余裕を持っていることは、人間としてほとんど最高の贅沢だと考えていいのである。これが私たちが得ているのに気がついていない第二の幸福の証拠である。
 私は子供の時に大東亜戦争を体験した。三百万人が死に、国民は家を焼かれ、国中からあらゆる物資が消えた。ガソリンやボトル入りの水やカップヌードルがスーパーの店頭になくなったなどという物資不足の比ではない。お米も砂糖も油もわずかな量を配給されるだけだ。衣類など、スフ(ステープル・ファイバー=植物性人工繊維)と呼ばれるぺらぺらの生地が、色の趣味もなく割り当てで少し買えるだけである。今私たちが使っているすべてのものがなかったのだ。燃料もないからお風呂もろくろく入れない。お菓子も全く売っていない。そんな状態がいつ終わるという当てもなく続いていたのだ。
 今回の地震では東日本が災害を受けたが、幸いなことに神奈川県と新潟県を結ぶラインから西は無傷で生産能力を保っていたから、援助物資もいつかは送られて来る。戦争中は、日本中が瀕死の状態で、ものは何も作られていない。私たちの世代は、そういう時代を知っているから、今回の地震にもほとんど心理的なショックを受けなかった。いざとなれば何もない暮らしに対処できる気力と知恵を持っている、と感じていたからだ。
  その上に私は、五十歳を過ぎてから、毎年のようにアフリカに行くようになっていた。途上国の中でも、最貧国と言われている国々の、しかも奥地に入って働いている日本人のシスターたちを訪ねていたので、土地の人々の現実の暮らしを、私はよく知っていた。首都の外国人向けのホテルに泊まるだけでは、見られない生活である。
  そうした人々の暮らしは、戦争中の日本人よりも更に貧しかった。多くの国が内戦を経験していたが、もともと電気も水道もない土地なのである。電気はなくてもいいとしても、水道がないのは悲惨な生活である。人々はポリタンクに汲んだ水を数百メートル、時には数キロも歩いて自分の家に運ぶ。一度に持てる水は、せいぜいで二十リットル、つまり二十キロである。炊事とちょっとした生活用水の必要量は一人一日四リットルだから、五人がやっと生きるだけの水である。それだけでは洗濯や体を洗う余裕はない。しかも共用の蛇口からいつでも汲めるというわけではなく、政府の役人が鍵を持って水道を開けに来る時だけしか汲めない。女たちは列を作って、時には険悪な表情で喧嘩しながら順番を待つのだ。
  時々私は雨の日に、家で「ありがたいなあ」と呟く癖があった。昔は家族が「何がありがたいの?」と聞いていたが、今は耳にタコができたらしく、誰も尋ねない。つまり私は、雨の漏らない家にいられることがありがたくて仕方がないのである。
  動物は、ライオンもシマウマも雨に濡れている。しかし人間はそうでないものだ、と私は思い込んでいた。今回の被災者も、地震の当日からどこかの避難所に入って、とにかく雨や雪には濡れなくて済んだ。ありがたいことに、日本の学校や公共の建物は今回の地震でも倒壊していない。しかし二〇〇八年の中国の四川省の大地震では、多くの学校が手抜き工事のために壊れ、児童が犠牲になった。
  アフリカではなんら災害がなくても、人々の中にはまだ動物のように雨に濡れて寝ている人がいる。或る年、私が働いているNGOはマダガスカルの田舎の産院に未熟児用の保育器を送った。町の人々は保育器を盛大に迎えてくれた。司教さまが来て感謝のミサを捧げ、お母さんたちが踊りの輪で喜びを表した。
  産院には一人の、子持ちの未亡人が働いていたが、助産師の日本人のシスターに、あの保育器が入っていたダンボールの箱はどうするのかとしきりに聞くのだという。欲しいならあげますよ、と約束しておいて、シスターはお祭り騒ぎに紛れてすっかりそのことを忘れていた。数日後、催促されて初めてシスターは「箱は何に使うの?」と聞いてみた。すると彼らの住んでいる小屋の屋根は破れていて、雨が降る日には子供が滝の中に寝ているようになる。だからこの厚手のダンボールを拡げて、せめて子供の寝ている上にかけてやりたい、というのが答えだったのだ。
  そうだったのか。雨に濡れないで寝るということは、人間の暮らしとしてまだ一種の贅沢だったのか、と私は悟ったのである。
  僻地で暮らす日本人のシスターたちは、一年中お湯のお風呂などには入れない。第一浴槽がないし、お湯を沸かす設備もない。シャワーなるものは、水のホースの先に缶詰の空き缶に錐で穴を開けた手製のヘッドを取りつけただけ。アフリカという土地を日本人は勘違いしていて、どこも暑い場所だと思っているが、実は季節や高度によっては、寒さに苦しむことも多いのである。そういう土地で水だけのシャワーを浴びるのはかなり辛い。
  日本の生活は、天国に近い、と私は地震の前から言い続けていた。しかしたとえば社民党党首は「日本は格差社会」だと言い続けて来た。日本は格差社会どころではない。どんな貧しい人でも、水道と電気の恩恵にだけは浴している。テレビを見られない人も、お金がないから救急車に乗れない人もいないのだ。どうしてこれが格差社会なのだろう。
  地震をいいと言うのではない。しかし地震で断水や停電を知ったおかげで、日本人は水と電気のありがたみを知った。すばらしい発見だ。昔から私はすべて自分の身に起きてしまったことは、意味があるものとして受容することにしている。そのようにして、願わしいものからも、避けなければならないことからも、私たちは学び自分を育てて行くことか健やかな生き方なのだと思っている。その姿勢を保てれば、今度の震災はむしろ慈愛に富んだ運命の贈り物ということさえできる。
 
 
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