指導者から大衆まで、民族大転向の謎
食文化やその背景にある日本人の考え方や伝統を断絶させてしまった原因は、指導者から大衆までを含む、戦後の日本民族大転向にあると、私は見ている、鬼畜米英と位置づけた敵視思想から、ほぼ完全な親米、アメリカ礼賛思想へと変わったのであるから、これを転向と呼ぶ以外にはない。諸外国からは理解し難いことかもしれないが、この転向が、当時の戦争指導者から大衆まで、共通して起きたのである。
主体性という防衛戦が薄弱のまま、敗戦によって日本の旧体制は崩壊した。
政治体制が崩壊したとき、いままでの価値観や習慣、それを支える風土などを守るものがあるとしたら、それは民衆のなかに根づいた思想とか体質と呼ぶべきものである。しかし、日本では、天皇を中心とした暗黙の了解を守ってきた民衆の顔というのは、もともと形の見えない存在であった。
村社会で必要とされたのは顔なき民であり、主張を持った強い個人ではなかった歴史からも当然の成り行きであった。自己の固有性を持たない者は、外部の枠組みが崩れたとき、思考と行動の規範を持っていないことに気づかされる。内なる固有の規範のない者がとることのできる道は、目前の事情に右往左往して、「いまを生きる」だけの人になることである。
このような、個性なき状況、思想なき状況で、大規模かつ自然に起こったのが、敗戦後の日本の保守派と民衆の大転向であったと考えている。
内なる規範を特たない日本の民衆が、敗戦後に歩んだ道は、低俗化しつつ、ますます自己の顔を失い、大衆化してゆく道であった。私は人間の条件は、自分の目で見て、自分の頭で判断し、自分の責任で行動できる、というところにあると考えている。それができない者が、大衆であると考えるべきだろう。
大衆には個としての力はない。目先の都合で動き、外部からの力に左右されて動く。目先の都合に関心が集中するため、目先の経済や技術には強い。しかし、外部からの力によって筒単に、「天皇陛下万歳」にも「ハイル・ヒットラー」にも、「毛沢東万歳」にもなる。指導者が中国に向けば大衆も中国に好感を持ち、指導者がアメリカに向けば大衆もアメリカに好感を持つ。
また、内なる規範を持たない大衆は低俗化する。内なる力によって制御することがないため、歯止めがかからない。日本のテレビの低俗度を見れば一目瞭然であるが、一日中、これほどの劣悪番組が流されている国は他にはないだろう。
私は外国に行くと必ずテレビをつけるが、テレビを見るとその国の民衆の関心のレベルがよくわかる。どの国にもコントやお笑い系の番組はあるが、日本のように品のないバラエティー番組は見たことがない。それを大の大人が喜んで見るような民族となってしまったのは無念である。このような状況にまで低俗化してしまったから、日本人の学生が海外で低俗な悪ふざけをして咎めを受けるような事件が続発する。
村社会では徳とされた自己主張のない体質は、社会の枠組みが崩れたとき、低俗化し、甘えの度を増しつつ受け継がれてきている。
社会的にも内部的にも、かくあるべしという規範がない現在の日本では、何でも許されると考えられるようになってしまった。とくに形を崩すこと、だらしないこと、甘えることが限りなく許容され、それが個性や多様性を重んじているかのように錯覚する傾向を強めている。
一方、もたれ合い社会から脱出し、個性や強さを持って生きてゆこうとする人間の足を引っ張ろうとする村社会の体質はまだ受け継がれている。
歯科医学、歯科医療の世界でも、古いものの見方が権威的に温存され、新しい個性ある発想や方法は圧力を受ける。現状を変えることを嫌い、平均的なレベルを守ろうとする。日本の保守的体質とは、このような性質のものに過ぎないが、案外、現在でもさまざまなところに温存されている。
このような文化の崩壊、または、溶解現象は、ますます日本人の退化を進行させてゆく。いまここで食い止め、日本を、そして日本人の身心の形と質を取り戻してゆくことをぜひ考えるべきである。
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