日本の余命はあと僅かである
どの時代でも、彼らの邪悪な発想(考える能力)は私たちの発想をはるかに超えていた。彼らの悪辣さの度合いは、日本人の常識ではとてもついていけない。そのため私たちは、世界を覆っている真実に対し、考えることを放棄し、信じることをやめる。
福沢諭吉は彼の『文明論之概略』の中で、開国を迫る列強の真意を次のように要約している。即ち彼ら毛唐(=「外国人」の蔑称)の本音は、要するに「自分たちと商売をせよ、さもなくば殺す、と言っているのだ」という看破である。
その性温厚にして軟弱な江戸時代までの日本人にとって、この考え方は常識をはるかにはずれた奇想天外の暴言であり、だからこそ福沢もわざわざその事実を本の中でコメントしているのだ。
しかし彼らにとっては常識も常識、至極まっとうな言い分であり、数万年の歴史をそれのみ集中して生きてきたといっても過言ではない。
そのような「彼ら」が、いままでは局地的な侵略と征服のみで過ごしてきたのは、ただ単に地球を一極支配するだけの能力が、いま少し足りなかっただけのことである。
あるいはIT革命、情報革命といった、新しい最終的な手段が出そろっていなかったためでもある。彼らはそれらが出そろうまで、辛抱強く臥薪嘗胆してきた。虎視眈々と、いまに見ていろと舌なめずりをしながら、それでもその時々にできうる最高の手段で、一極支配の地ならしをしてきたのである。
そしていますべてを手中にし、すべての条件が整ったというわけだ。
福沢は彼らの言い分を「商売をせよ」と、当時の日本人がやっとフォローできる表現を使って解説したが、本当はそんな生易しいものではない。
彼らが歴史で実証していることは、「自分たちの奴隷になれ、さもなくば殺す」ということなのだ。商売は、金儲けは、とっくに済んでいる。
金儲けの最終段階は、いまも昔も奴隷制度の貫徹である。
さらに、究極の奴隷化とは、頭脳の奴隷化なのだ。つまり、マインドコントロールのことである。
いまこそ彼らは堂々と宣言する。
「我々の家畜になれ、奴隷になれ、ロボットになれ、さもなくば殺す」
それが最後の「お触れ」なのだ。
★なわ・ふみひとのコメント★
文章表現は荒っぽい気がしますが、分析の確かさには感心します。ここに拾った内容を読まれただけで著者の真意が理解できる方は少ないかもしれません。既に今日では、大半の日本人は「彼ら」のマインドコントロールのもとで「家畜化」していると思うからです。より詳しい内容はこちらに→
『この国の終わり』。