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 人間の覚悟
五木寛之  新潮新書
 
 
 覚悟するということ

 1945年の夏、中学1年生だった私は、当時、平壌とよばれていた街にいた。
 現在の北朝鮮の首都、ピョンヤンである。
 平壌は美しい街だった。大同江という大きな川が流れ、牡丹峰という緑の台地がそびえている。古代の楽浪郡の遺跡には、瓦の破片や土器などが転がっており、ポプラ並木を涼しい風がわたった。
 美しい街だった、などというのは、私たち日本人の目から見た傲慢な感傷にすぎない。私たちは、植民地支配者の一員として、その街に住んでいたのだから。

 1945年、夏、日本が敗れた。戦争に負けたとき、旧植民地支配者が受ける苛烈な運命に、私たちは無知だった。
 そもそも日本が敗れる、ということすら想像もつかなかったのだ。
 あの第二次世界大戦の末期、私たち日本国民の大部分は、最後まで日本が勝つと信じていた。
 ふつうに新聞を読めば、戦局の不利はだれの目にもあきらかだったはずだ。それにもかかわらず、私たちには現実をまっすぐ見る力がなかったのである。米軍が沖縄までやってきているというのに、私たちは敗戦の予測さえついていなかった。
 これがイギリスやフランスなど植民地経営に歴史のある国の国民なら、自国が敗れる前に、さっさと尻に帆をかけて逃げ帰っていただろう。
 しかし、私たち日本人にはまったく現実が見えていなかったのだ。当時、ラジオ放送は絶大な信頼感をもたれていたメディアだった。
 敗戦後しばらく、ラジオは連日のように、
 「治安は維持される。日本人市民はそのまま現地にとどまるように」
 と、アナウンスしていた。私たちはそれを素直に受け取って、ソ連軍が進駐してくるのを、ただ呆然と眺めていただけだった。
 実際には敗戦の少し前から、高級軍人や官僚の家族たちは、平壌の駅から相当な荷物をたずさえて、続々と南下していたのである。
 ソ連軍の戦闘部隊が進駐してからのしばらくは、口には出せないような事態が日本人居留民をおそった。私の母も、その混乱のなかで残念な死に方をした。
 私たちは二重に裏切られたのである。日本はかならず勝つといわれてそれを信じ、現地にとどまれといわれて脱出までの苛酷な日々を甘受した。
 少年期のその体験にもかかわらず、いまだに私自身、いろんな権威に甘える気持ちが抜けきれないのだ。
 愛国心は、だれにでもある。共産主義下でのソ連体制を徹底的に批判しつづけたソルジェニーツィンも、異国に亡命した後でさえロシアを愛する感情を隠そうとはしなかった。
 どんな人でも、自分の母国を愛し、故郷を懐かしむ気持ちはあるものだ。しかし、国を愛するということと、国家を信用するということとは別である。
 私はこの日本という国と、民族と、その文化を愛している。しかし、国が国民のために存在しているとは思わない。国が私たちを最後まで守ってくれるとも思わない。
 国家は国民のために存在してほしい。だが、国家は国家のために存在しているのである。
 私の覚悟したいことの一つはそういうことだ。

★なわ・ふみひとのコメント★
 「覚悟をする」ということは「(不満だが仕方がないと)断念する」という意味ではありません。言葉に「覚(さと)る」「悟(さと)る」という文字が2つも使われている通り、「現実を直視し、しっかり受け止める」という意味です。近い意味の別の言葉で表現すれば、「腹を据える」ということになるでしょうか。要するに「無用な期待をしないこと」なのです。
 覚悟を決めた上で、その現実の中でどのように生きていくかを考え、行動に移していくことが大切です。まず自分の心の持ち方を正し、他者に対するいたわりや励ましの気持ちを持ち、日々を精いっぱい生きていれば、恐いことも、腹の立つことも、残念なことも起こらなくなります。この本の著者も、自身の体験に基づいてそのような生き方を推奨しているのでしょう。

 
 
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