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 日本、崩壊の危機
前野徹・著  致知出版社
 
 
 公に奉仕する日本人の最高の道徳律を放棄

 日本人の心を一言で表現するなら「武士道(侍)精神」である。
 フランスの作家でもあり、ドゴール大統領時代の文化大臣でもあったアンドレ・マルローは来日した折り、日本と他のアジアの国々とが違うのは、日本に武士道があるからだと語った。欧米人は、日本は中国の分家だろうというぐらいにしか考えていない。だが、マルローは、それは世界中の誤解だ、中国と日本は違う、それは武士道があるからだと見抜いていた。
 武士道などというとキナ臭く感じられる方がいるだろうが、その本質は日本人の道徳律であり、人の道を照らす倫理体系の要石だ。武士道は決して好戦的な思想ではない。「武」は「戈(ほこ)」を止める。つまり、武力を収めて、平和的に解決しようという精神だ。武士道精神については、ここでは詳しく述べる紙幅はないが、簡単に言うと、武士道を貫いているのは、公に奉仕するという日本伝統の崇高な精神である。武家社会の誕生と共に、日本の風土から生まれた武士道は当初は武士だけの戒律だったが、江戸時代、他のために生きる奉仕の精神に拡張され、広く庶民にも浸透していった。
 この公の精神は、日本特有のもので世界のどこにも見られない。例えばお隣の中国や韓国には儒教精神があり、その昔、日本の精神形成に大きな影響を与えたが、日本は儒教を丸ごと移植したわけではない。
 儒教は仁義礼智信は教えても忠の考え方はない。儒教精神の軸は「孝」だ。親を尊び、親孝行に励めという教えである。儒教国家、韓国では何よりも親、年長者への敬意を優先するし、中国でも一族、ファミリーを最優先して考える。
 だが、日本では「孝」「家族」の範囲に留めることなく、「忠」の概念を加え、「忠孝」の精神に昇華した。忠は主君という一人の人間に殉ずる思想ではなく、「公」を大切にする心である。公とは世の道理、真理全般を指し、道理に適わぬ行ないならたとえ主人でも諫言(かんげん)し、それが受け入れられなければ、自害しても猛反省を促す。これが武士道に流れる強靭な精神だ。
 西欧にも、このような崇高な精神はない。西欧では個人の権利を中心に考える。社会と個人は契約関係で成り立っていて、国民は義務を果たすかわりに国から権利を与えられる。これが西欧の個人主義である。
 西欧で個を基軸にした思想しか生まれなかったのは、彼らが厳しい環境に置かれていたからである。多数の民族が領土を巡って戦いに明け暮れた。食うか食われるか。その中から排除、支配の思想が生まれた。清水馨八郎・千葉大名誉教授が指摘している。
 「外国に普通にあっても、日本にはないものを探し対比すれば、日本のユニークさが浮かび上がる。それらはまずバイキングの海賊精神、奴隷制度、民族根絶やし皆殺しのホロコースト、革命思想、共和制人権思想、一神教、異端審判、火あぶりの刑、宗教戦争、遊牧、畜牛生活、性悪説、ゲリラ・テロ、鍵生活(キー・ライフ)などである。これらは、西洋世界では日常のことで、日本人には想像できない現象ばかりである」(『「白人スタンダード」という新たな侵略』祥伝社)
 対して豊かな自然に囲まれ、外敵の侵略もなかった日本のベースにあるのは聖徳太子以来の「和」の精神であり、この風土が公を何よりも大切にする最高の道徳律を生み出した。
 忠の精神は日本人の心の底に生き、古代より脈々と受け継がれ、私たちの遺伝子に組み込まれてきた。
 しかし、戦後の教育により忠の遺伝子は破壊され、今や伝統の精神はどこにも見当たらない。国益をないがしろにして私腹を肥やそうとして、亡国活動に勤しむ政治家や官僚、自社の利益のためなら国民を欺く企業経営者、電車に乗れば、注意のアナウンスなどには耳を貸さず、携帯電話を使う人々、気に食わなければ見ず知らずの人間でもいきなり殴る若者に、それを見て見ぬふりをする大人たち。深夜の暴走族に、コンビニにたむろし奇声をあげる中高生。
 日本人のモラルはどこへ行ってしまったのだろうか。誤った個人の権利ばかりを教え、悪平等の社会を作り出した日教組の罪も重いが、それを律することなく放置している政府の責任も重い。
 
 
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