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 凜の国
前野徹・著  青春出版社
 
 
 フランシスコ・ザビエルが記した日本人の節度

 日本がアジアでは例外的に西欧の植民地とならなかったのも、私たちの先祖が立派だったからです。
 西欧人にとって、東方は、未開の地で野蛮な人々が住んでいる地域でしかありませんでした。文明の進んだ自分たちが行って、武器で脅かせばどうにでもなるというのが彼らの考え方でした。しかし、日本に来てみると、ほかの地域とは違って、非常に文化が発達していて、人々もしっかりした考え方を持っている。これは手強いぞとなって、武力での侵略を諦めたのです。
 例えば1549年に来日した、イエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルです。ザビエルは前に触れたようにポルトガルの東方侵略の手先でした。そのザビエルが本国に送った書簡にこう書き記しています。
 「日本人はこれまで遭遇した国民の中で、最も傑出している。名誉心が強烈で、彼らにとっては名誉がすべてだ。武士も平民も貧乏を屈辱とは思っていない。金銭より名誉を大切にし、侮辱や嘲笑には黙って忍ぶということはしない。武士が領主に服従するのは、それが名誉だからであって、罰を恐れているからではない。日本人の生活には節度がある。酒を飲み過ぎるきらいはあるが、多くの人たちが読み書きができ、知的水準が極めて高い。学ぶことを好み、知的な好奇心に溢れている」
 同じくイエズス会に所属し、織田信長を訪ねた巡察師にヴァリニャーノがいます。彼も、日本人の欠点を挙げる一方で、「ヨーロッパ人に見られる粗暴さや無能力がなく、忍耐強く清潔好きで、理解力に優れ、仕事に熟達している。礼儀正しさと理解力において日本人がわれわれを凌ぐほど優秀であることは否定できない」と日本人を高く評価しています。
 日本人の技術力も彼らを驚かせました。日本に鉄砲が伝来したのは、1543年。種子島に漂着したポルトガル人からたった2挺の鉄砲を手に入れた八坂金兵衛は、わずか1年で火縄銃「種子島」を20挺開発します。その後、火縄銃はさまざまな職人の手によって改良を重ねられ、本場ヨーロッパをしのぐ性能の銃になりました。そして、アッという間に日本中に広がり、鉄砲伝来からわずか32年後には織田信長が三千人の鉄砲隊を編成して、武田軍との長篠の戦いで勝利し、天下統一に向けて動き始めたのでした。
 元寇から数えて約六百年後、日本は元寇以上に大きな危機に見舞われます。黒船の来航です。
 しかし、日本はほかのアジアの国々のように武力で制圧されることはありませんでした。強靱な精神力と技術力、高い文明があったからです。
 徳川末期、日本に開国を迫った太平洋艦隊司令官のペリーは、その報告書で、歴訪した国々の中でも日本は極めて組織化された社会機能を備えており、彼らが開国してわれわれの文明に幅広く接するなら、驚くほど短時間に軍事国家、産業国家になるだろうと予測し、武力での開国を諦めました。
 このペリーの予言は見事に当たり、明治維新を経た後、日本は近代国家として発展、大東亜戦争に敗戦した後も、経済大国として甦りました。
 ペリーがもうひとつ驚いたのは日本の科学技術です。ペリーは日本を攻略するにあたって、江戸湾とその周辺を欧米の最新技術を使って測量しました。その測量結果を、すでに日本に西洋医学を伝えたオランダ人の医者、シーボルトによって持ち出されていた伊能忠敬の地図と照らし合わせたところ、まったく同じでした。以来、ペリーは日本は相当技術の進んだ国だと警戒したそうです。
 また幕末、ロシアの提督、プチャーチンが来航して、日本の海で難破しました。そのとき、伊豆の大工が少し小さかったものの、ロシア船とそっくりの船をつくり、驚かせたという話が残っています。
 技術的にも精神的にも優秀な日本人を武力でいうことをきかせるのは無理だと判断した諸外国は、話し合いによる開国に方針を転じたのでした。

★なわ・ふみひとのコメント★
 
戦後、主として戦勝国アメリカの手によって、「凜の国」を普通の国以下に貶めるためあの手この手の“手術”が施された結果、もはや今日では日本のどこにも“凜”の面影を見ることはできなくなってしまいました。拝金主義と自己中心主義が社会全体に蔓延し、先人の嘆きを誘うような哀れな国へと落ちぶれてしまったのです。しかし、かつてのこの国は世界が驚嘆するほどの優れた国民で構成されていたという歴史的な事実は、大和民族としての誇りを持って記憶にとどめておきたいと思います。
 
 
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