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 龍馬暗殺に隠された
恐るべき日本史
小林久三・著  青春出版社
 
 
 西郷は龍馬暗殺の秘密を知っていた

 龍馬暗殺は薩摩藩によるのではないかという見方は、従来から存在した。その代表的なケースは、蜷川新氏の「維新正観」であろう。
 国際法の権威だった捲川氏は、近江屋の女中が暗殺犯たちが引きあげていくときに、鹿児島弁で、二、三言葉をかわしていたのをきいたとする土佐藩の中島信行の言葉から薩摩藩犯人説をくみたてていったのだが、それだけでなく、薩摩藩関与を暗示する海援隊の佐々木多門の書が発見されている。
 佐々木多門が幕府の旗本松平主税の家臣岡又蔵に宛てた機密文書には、「才谷(龍馬の変名)殺害人、姓名マデ相分り、コレニツキ薩藩ノ所置ナド、種々愉快ノ義有之」というものだが、それ以外にも「肥後藩国事史料」にも「坂本を害候も薩人なるべく候こと」の一文がある。
 龍馬暗殺の二日後、薩長両藩は出兵協定をむすび、二十四日後の小御所会議で強引に王政復古のクーデターを決行するなど、武力討幕派はなにかに追いつめられたかのように焦りまくっていた。反幕のなかでもハト派の龍馬にこれ以上鼻づらを引きまわされれば、自分たちが政局から浮きあがり、孤立無援の窮地に追いこまれかねないという危機感がつのっていたのであろうか。
 その危機感から、武力討幕派の薩摩藩は龍馬を葬った。暗殺のリーダーは西郷。西郷の指示で、当然、中村半次郎も動いたであろう。
 彼らは一計を案じて、土佐藩主を暗殺グループに引き入れた。土佐藩の山内容堂、後藤象二郎にとって、武力討幕派の中岡慎太郎と大政奉還派の龍馬はともに目の上のコブで、同時に葬り去ることを望んでいた。
 薩摩藩と土佐藩。両藩が作成したシナリオでは、暗殺の容疑を新撰組に向けることに決定した。その線から伊予出身の原田左之助を刺客の一人にすることにして、その物的証拠として彼の刀の鞘が狙われ、伊東派の藤堂平助があらかじめその鞘をすりかえておいた。
 原田左之助の犯行を、さらに補強するための材料として、こなくそという方言を利用することにして、事件直後に現場にかけつけた谷干城が、その言葉をきいたと偽証することにした。後年、谷が第一次伊藤内閣で農商務大臣になったのは、龍馬暗殺にからむ秘密をにぎっていたためだろうか。
 実際、龍馬暗殺について、谷の言動には重大な謎がある。谷は、暗殺現場にかけつけた、いわば事件の第一発見者であり、客観的な事実と符合しないにもかかわらず、終始一貫、新撰組犯人説を強硬に主張した人物であった。このことを裏返していえば、龍馬暗殺にはあらかじめ新撰組を犯人とするというシナリオがあり、そのシナリオに忠実にしたがって主張しつづけてきたということになる。谷の主張は、明治44年(1911)、74歳で生涯の幕を閉じるまで変わらなかった。薩摩と土佐藩の講釈による龍馬暗殺のシナリオ。薩摩と土佐には、共通の同士がある。土佐は、秦一族の長宗我部一族が支配したことはすでに紹介したが、薩摩の島津氏のルーツも秦一族である。島津氏は、秦氏の末裔としてきわめてエリート意識が強く、関ケ原の合戦で徳川家康の東軍に敗れたことを教訓にして、江戸時代、薩摩に強大な秦王国を築きあげてきた。
 一方、土佐の長宗我部氏は、関ケ原の合戦の結果、西軍に加担して敗れ、山内一豊が 遠州掛川から土佐国主として入国したけれども、長宗我部氏の血をうけた秦氏の残党は、幕末、土佐勤王党のなかに根強く生きている。長宗我部氏とゆかりが強い明智光秀をルーツとするといわれる坂本龍馬もまた、おそらく秦一族だったのであろう。
 そんな龍馬を、薩摩と土佐両藩が協力して葬った背景には、もっと深い事情があったといわなければならない。その事情を知る谷は終生、沈黙を守りつづけていたのだが、薩摩藩の西郷隆盛も、龍馬暗殺の秘密を知る一人であったろう。
 龍馬暗殺後、西郷は、死にもの狂いで戦争を誘発しようと試みる。「短刀一本で――」と岩倉具視に揺さぶりをかけたり、江戸で浪士たちに強盗や火つけを働かせたり、ありとあらゆる手段で幕府を挑発した。挑発は、江戸だけではなく、関東各地におよび、浪士隊を各地に派遣し、関東をかく乱する戦術に出た。革命は銃口から生れる。
 けれども江戸城開城をめぐって、西郷は勝海舟と会談した結果、江戸城は無血開城された。その結果、西郷はあまりに幕府に寛容であると批判され、以後、戊辰戦争の指揮はすべて長州藩の軍事官僚の大村益次郎がとることになる。
 
 
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