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 新版
決然たる政治学への道
副島隆彦・著  PHP研究所
 
 
 ロッキード事件の真実

 世界帝国アメリカは、自分の支配する帝国内の属国の一つ一つに、時々、強力な民族指導者(国民政治家、ナショナリスト、民族主義者)が出現することを、避けられないことだとよく分かっている。だから、彼らをうまく手なずけて、自分たちの言うことをよく聞くように言って聞かせる。
 しかし、なかには、どうしてもアメリカ帝国の意思に逆らう者が出て来る。そして、その反抗が、アメリカにとって限度を超えたと判断すると、抹殺して、新しいのと取り換える。反抗する者をどんな手段で抹殺するかはさまざまだが、まずその国の、国内での政治的失脚を画策する。その人物の反対派政治家(政敵)たちに肩入れして、その人物の弱点を分析し、そこから突いて来る。
 田中角栄がまさしくそうだった。彼だけは、戦後の日本の保守党政治家たちのうちで、アメリカの言いなりにならない強固な意志を持った、民衆に支持基盤を持つアジア型の民族政治家だった。だから、田中は打倒されたのだ。
 まず、1974年に「金脈問題」の形で田中に政権を投げ出させておいてから、さらに、「ロッキード事件(1976年)」の形で追い討ちをかけた。ロッキード事件は、アメリカの上院議会で「証拠」つきで発覚させられる形で、汚職事件としてデザインされた。田中は、アメリカ支配層の意思による画策で、刑事被告人に仕立てあげられて行った。
 田中角栄が打倒された理由は、大きく2つある。一つは、アメリカ政府の許可を取らずに勝手に中国に渡って日中国交回復を成し遂げたことだ。田中は、「キッシンジャーやニクソンも行ったんだからいいだろう」という考えで訪中して、毛沢東、周恩来と直談判した。そして一気に「日中共同声明」(1972年9月)を実現させた。これは、形式上は、「共同声明」となっているが、実質的には条約であり、しかも、戦争賠償問題の解決も含んでいたから講和条約(平和条約)に準じるものだった。これがアメリカ国務省の逆鱗にふれた。
 だからこのあと、74年1月に、田中が東南アジア歴訪の旅に出た時、タイのバンコクと、インドネシアのジャカルタで、つづけざまに反日暴動が起こされている。この時、日系企業への放火や日本製品の不買運動が起きた。これらは、アメリカのCIAが各国で仕組んだものであった。奇妙に組織されたデモだった、と日本企業の現地駐在員だった人たちから日本国内にこの真相が後に伝わった。
 田中が打倒されたもう一つの理由は、石油である。時代は73年、オイル・ショックの真っただ中だ。世界を襲った第四次中東戦争→「オイル・ショック」による、国内エネルギー危機を回避するために、田中はインドネシアのスハルト政権と交渉して、直接、政府間で、原油の日本への安定供給協定を結んだ。これには、世界の石油を支配する「セブン・シスターズ」と呼ばれる、巨大石油会社が激怒した。エクソン、モービル、シェブロン、カルテックス、テキサコなどの石油資本である。これらは、ロイヤル・ダッチ・シェルを除いて全て米ロックフェラー財閥系の資本である。この国際石油資本を所有している者たちがアメリカ帝国の真の支配者たちである。
 ちょうど、この頃、航空機産業の大手の一角であるロッキード社は、強力な政治力を持っていた社主が急死した。未亡人が経営を任されて、社内がゴタゴタして内部弱体化した状況だった。そこを、ダグラス・グラマンやボーイングという、同じくアメリカの国防産業の、戦闘機や爆撃機を製造している競争企業から狙われた。ロッキード社から賄賂を受け取っていたのは、多くのアメリカの属国の政治家たちである。もし田中角栄に五億円が渡っていたとしても、そのわずか「五億円」の金など、右から左にどんどん動いている、彼の年間政治資金、数百億円のうちのほんのわずかであって、田中角栄は本当に記憶がなかっただろう。この同じ時にオランダやイタリアの首相もロッキード社から賄賂をもらっていたことが発覚している。ニクソン大統領にも手数料が渡っていることが判明している。これらは日本国内では全く記事にならない。これらのことはアメリカやヨーロッパではニュースになった。あの時、ロッキード社の裏金の領収書のコピーが、間違って米証券取引委員会(SEC)に届いたという茶番劇から「ロッキード事件」は始まった。
 こうしてアメリカの真の支配層たちは、自分たちの意思にそぐわない者はたたきつぶす。自分たちの現職の大統領であったジョン・F・ケネディを暗殺することまでする。これを「王殺し(レジサイド)」と言う。
 
 
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