動物性食料源の違いに由来する世界観の相違
■日本とユーラシア文明の根本的な違いは、一言で言ってどこにあるのでしょうか。
本論に入る前に、ひとつ私がいつも疑問に思っていることを言いましょう。それは今の日本がこれほどまで何もかも欧米化しているのに、どうしてキリスト教だけは全くといっても良いほど広まらないのかということです。皆さんお分かりになりますか。
それに対する私の答えは「日本に羊がいないから」なんですよ。つまり、日本の文化の基層にユーラシア文明に特徴的な牧畜・遊牧の要素が完全に欠如していることが最大の原因なのです。「神が牧者で信者はその命じるところに従う羊の群れ」という捉え方というか仕組みが、一般の日本人にはどこかピンとこないのですね。でもこれだけでは何のことかよく分からないでしょうから、順を追って詳しい説明をすることにします。
最近の政府の宗教別統計を見ると、日本のキリスト教徒の数は全人口のわずか0.8%で、これまでとほとんど変わりません。日本でのキリスト教はどうしても人口の1%を超えられず、これを「1%の壁」と言うのだそうです。しかし明治以後の日本は、宗教の点でも全く自由の国となり、キリスト教は従来の仏教などと違って、どちらかといえば文明開化の匂いのする、「ハイカラ」で高級な感じをもった宗教だと一般には受け止められてきたと思うのです。教会に行くからといって昔のように差別されるわけでもなし、敬虔なキリスト教の信者ですということは、知識人の間などではむしろプラスの価値を持って受け止められているのではないでしょうか。
それどころかキリスト教的な風俗や行事はクリスマスにしても賛美歌や結婚式にしても、庶民のレベルではますます人気が高まっているようです。そして各地にあるキリスト教系の私立の小中学校には、どちらかといえば経済的に裕福な家庭の子女が毎年数多く入学します。キリスト教系の伝統ある大学は全国にいくつもあります。それなのに肝心の宗教としてのキリスト教の信者はさっぱり増えないのだから何とも不思議でしょう。
ところがかつては日本と同じく、いや日本以上に厳格な儒教国、仏教国だった韓国では、独立後の一時期キリスト教が全人口の40%を越すほどまで一気に広まり、現在でも約25%、全宗教人口の半分がキリスト教徒であることを考えると、これも不思議ですね。
韓国でキリスト教が広まった理由としては、よく日本の統治抑圧への対抗といった政治的な要因が指摘されたりしますが、私の考えでは、同じ東洋人だ儒教国だといっても、韓国人や中国人は文化の基層にユーラシア大陸のすべての文明に共通するある特質をもっていて、それをまったく欠く日本人とは精神構造が違うために、このような相違が生まれるのだと考えています。よく欧米人と日本人はなかなか話が通じないけれど、韓国人や中国人は欧米の人と互いの意思疎通が速いなどと言われるのもこのことと関係があるのです。
その特質とは、人間生活の土台が古くから今に至るまで【家畜+穀物(主として小麦)複合体】だということです。これに対して日本人の基本的な生活基盤は、つい2、30年まえ経済が豊かになるまでは、過去千年以上もの間【魚介+穀物(米と雑穀)複合体】だったのです。この違いが現在の世界で圧倒的な強さを示しているユーラシア的文明、これにはヨーロッパはもちろんのこと、アメリカ文明も中華文明も含まれますが、この系統に属する諸民族と、これまでの日本人を大きく区別する要因となっていたのです。そして究極的にはこの違いに基づく人間観、世界観の違いが、はっきり意識されてはいなくても、なんとなくキリスト数的な世界観を日本人に受け入れ難くしているのだと私は思うのです。
考えてみるまでもなく人間は典型的な雑食動物ですから、いつどこでも適当な割合で植物と動物の両方を食べる必要があるのですが、ユーラシア大陸の人々は古くからこの動物性の食物を、野生の獣を獲ることに加えて主に家畜化された動物の乳や肉から摂ってきました。その結果、これらの人々は長い間のうちに家畜と密接に共生する生活文化体系を作り上げたのです。
ところが伝統的な日本人の生活は、風土条件や宗教上の理由などによって家畜に依存することが非常に少なく、したがって家畜を主な食料源とする文化は成立しませんでした。そのかわり日本人は海や川から取れる水産物、すなわち魚介類や海藻類を極度に利用する文化(現在でも約80種の海藻が何らかの形で利用されていて、これは世界一です)をつくりだしたのです。これを私は簡潔に【魚介+穀物複合体】と呼んで、ユーラシアの【家畜+穀物複合体】と対比させることにしたのです。
実はこの動物性食料源が家畜か魚介かという相違こそが、ヨーロッパや中近東、そして東北アジア諸民族のもつ動物観や人間観、そして世界観までが、日本人のそれと非常に違っていることをかなりうまく説明できると私は考えています。
■魚介文化と家畜文化の決定的な違いは何なのでしょうか。
ひとことで言って、相手(対象)を支配しようとする「意思」の有無です。魚介文化の日本人には、「他者(対象)としての生き物を支配下において、その行動を制御する」という観念が生まれなかった。もしあってもユーラシアの人々に比べると非常に希薄なのです。考えてみればすぐ分かることですが、魚介類は人間が支配し命令を下して、その行動を意のままに操ることのできる対象ではありません。魚や貝はただそこにいるものを採取するか、あるいは追いかけて捕まえるだけのものです。
これに対して家畜は、人間が自分の支配下に置いて命令を下し、その行動を制御しなければ、家畜を飼う目的が達せられません。ですから家畜となる動物は、人間が(いろいろと手を尽くせば)言うことを聞かせることのできる性質をもった動物だけが、何時どこでも選ばれるのです(人間の思うままにならない動物や、人間に刃向かってくるような動物が、家畜に向かないことは言うまでもないでしょう)。
「動物性食物としての生き物を支配し、その行動を制御しようとする強い意思が、人々が生存していくために絶対に必要であったか、そうで無かったか」という違いが、やがて他者としての人間を支配の対象とするときの意思の強さの違いとしても現れ、それは同時に、支配者と被支配者との間に明確な区別、意識の上での対立や断絶を生むことになりました。これがユーラシア大陸の人間と日本人を截(せつ)然と分ける最も重要な相違となっているのだと私は考えているのです。
★なわ・ふみひとのコメント★
著者の洞察力に感服いたします。この章のタイトルは「魚介か家畜か」となっていますが、家畜を食べることのなかった日本人が、明治維新を境として肉食の習慣を身につけ、また戦後は占領国アメリカによって日本人の食生活が【家畜+穀物(主として小麦)】へと計画的に変えられてしまったことによって、今日の殺伐とした日本社会が誕生したと見ることもできそうです。
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