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 騙されやすい日本人
宮脇磊介・著  新潮社
 
 
 漂流する日本人

 死生観を厳しく見詰めることを余儀なくさせられる共通の環境に人びとが一緒に置かれることも、同時にその集合体の危機意識を敏感にさせることになるであろう。近隣の国からの侵攻の危機に瀕している国の国民がそうであろうし、現実の危機として戦争が急迫していなくても徴兵制度のある国の若者は、多かれ少なかれ緊張感を持って生と死の問題、生きる価値を死すべき価値との対比で見詰める機会を持つことができる。
 それらの国ぐにの多くの国民は、「国家の生存」を意識する。世界は本来「無秩序」であり、そこに国際間の「ルール」が構築されるが、それでも「無防備」では国家の存立が危ないことに気付く。と同様に、人間は本来「まるはだか」であり、危険に対して無防備な存在なのだ、という当然の事実に気付く。そしてこの「まるはだか」の人間を、家族・近隣・民族の情愛と、国家を頂点とする諸々のシステムが育て守ってくれてきているのだ、ということに思いが至る。自らの生命・身体・財産を守ってくれる国家というシステムの存在を是認し、国家の恩恵を理解することになる。国家の威信を高めることが、自分自身の国際的な地位を高め、経済的な繁栄を享受することになるわけが理解できるようになる。
 そして、そのようにするために、自分自身が国家に帰属しつつ力を尽くすことに「誇り」を持つことにもなる。歴史教育や国際関係に関する教育を受けるまでもなく、国家という民族の運命共同体や社会公共の利益のために、自らの利益を部分的にせよ犠牲にすることの価値の大切さが理解できるであろう。「世のため人のため」に尽くす、「公」のために私利を第二義にする心に価値を見出すことにもなるのである。
 「自己犠牲」そのものを尊い価値として尊重することは、情緒的に過ぎ、あるいは宗教の領域に属することかもしれない。しかしながら、個人の利益に優先する価値、さらには、時として生命に優先する価値を見出す態度は、人間が人間である故にこそできる精神活動の所産に他ならない。この選択肢をタブー視することは、議論はあるにしても、個人の尊厳の否定、基本的人権の否定に関わることを意味するものであろう。
 企業界にあっても、創業精神をしっかり受け継いでいる企業、起業家精神に富んでいる経営者の企業ほど、「企業の死生観」とも言うべき危機管理意識を明確に持っていると同時に、社会的責任を利益追求より優先するところに価値を主張する傾向が見られることは、このことを裏付けるものとして面白い。
 日本の人びとは、歴史的に見れば、ついこの間まで「生と死」の問題に否が応でも直面させられていた。戦前の日本は、貧乏だった。家族揃って三度の食事がどうにか食べられることは有り難い、と感謝しながら、人びとは生活を営んでいた。戦中は、米軍の空襲による無差別爆撃に日夜脅かされ、多くの家族、知人が帰らぬ人となった。敗戦直後から数年間は、全国主要都市の駅周辺には、「浮浪者」が溢れていた。東京の上野駅の地下通路は、食うに食えない浮浪者で足の踏み場もない状態であった。子を抱くボロボロのモンペ姿の母親もろとも占領軍は、シラミ退治のため、DDTの粉末を真っ白にかけていた。
 一方、パンーつで春をひさいでいるところから「パンパン」と称されるようになった、と当時言われていた「売笑婦」が、口紅を赤く塗り占領軍の米兵と腕を組んでいる姿も多かった。山手線の南西側にある各駅のプラットフォームの上に立つと、見渡す限り焼け野原で、その向こうに富士山がいつも美しく見えたものだ。この頃まで、日本国民は、常に「生」と「死」の間に置かれていた。日本国民は、そこから立ち上がり、世界が目を瞠(みは)る奇跡の経済復興を死に物狂いで成し遂げた。
 今はどうか。戦後50年経って日本は、経済構造の面では成熟社会になった反面、精神構造においては未成熟社会どころか欠落社会となった。東京の新宿駅で背広を着て「愛」と書いたダンボールに住み、昼間から酒盛りをしているような「ホームレス」は、カネにまみれて精神的に類廃した「腐敗社会」において、「人権」に擁護されることによって存在し得る奇妙な「特権階級」である。日本の子供たちの中には、それが凶悪事件であるという社会的な意味が理解できぬまま死を弄ぶ事件を起こしたり、少女たちの中には、それが倫理の荒廃であるとして世界の侮蔑を招いている「援助交際」に耽っている者もいる。それを見る大人たちは、社会も、教育現場も、家庭も子供たちに対する指導能力を失って手をこまねいている。日本ないしは日本人とそのアイデンティティを失った精神構造の空白域の中で、子供も大人も「新しい価値観」を見出す努力をしないまま、漂流しているように見える。

★なわ・ふみひとのコメント★
 国家(公)は国民(個)のためにあるもので、国民が国家に尽くすという考えは間違っている――と教えられたのが戦後の日本人です。いまやそれが当然のことのように社会に浸透しています。そして今、世界を支配する大きな力は、世界中から民族や国家という垣根を取り払おうとしているのです。その行き着く先が「ワン・ワールド」です。ディズニーランドで「世界は一つ〜♪」と流されている「イッツ・ア・スモール・ワールド」も、若者や幼い子供たちが民族意識、国家意識を持たないように誘導する洗脳音楽と言ってもよいでしょう。確かに理想ではありますが、現実の世界は国家や民族がしのぎを削って日々の生存競争を続けている状況です。今後の世界的な食糧危機の深刻化の中においては、国家間の対立はさらに鮮明になっていくことと思われます。
 しかしながら、そのような状況を前にしても、国の主権が奪われ、失われつつあることに気づかないでいるのが大方の日本人です。戦後、GHQの管理下に置かれた学校教育とマスコミの誘導によって、日本人は計画的に洗脳され、騙されてしまったという現実をこの本は語っています。

 
 
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