人類に地球規模のテレパシー感覚が芽生えるとき
遠い過去に対して、近未来はどのように描写されるのだろうか。これは、人類が、これまで描写してきたような大きな周期の波にうまく乗れた場合に限っての、想像上の話として進めてみよう。
2000年前後もしくはそれ以降に、大きな地殻変動や、地球規模の異変を体験しながら、人類の身体自体が、(私たちがふだん知覚している)純粋な物質体というよりも、半エネルギー体として、知覚されるようになるだろう。
単純に言えば、おそらくは気功師が感じている気の状態を、物理的な自分の肉体や他の事物に関しても感じとるであろうということだ。
そして、もうひとつは、五感が非常に鋭敏になって、どんなことでも楽しみながら取り組めるような、「感覚の新鮮さ」を手に入れるようになることだ。いわば、あらゆるものに感動やエクスタシーを感じる、赤ん坊のような感受性が芽生える。
また、原始的なテレパシー感覚も芽生えるだろう。原始的といったが、よく科学の分野でも知られているように、動物たちの多くはテレパシーを持っている。テレパシーは、人類が潜在的に持つ本能的な機能のひとつ。つまり、テレパシー機能も、人類が遠い過去の地球の記憶とシンクロすることによって、再び得られる人類の過去の能力なのである。 こう聞くと、楽しい未来が待ち受けているように聞こえるかもしれないが、事実、そうなのである。ただし、ここでの話の前提は、「大きな時間の波にうまく乗れたら」、言い換えれば、マヤの時間周期に人類の意識も身体も丸ごと同調することができれば――という仮定での話である。
そして、もう一方では、明るい話題ばかりではない。問題は、私たち人類が2000年までに自然環境を調和のとれた状態に復帰させ、「地球が本当にそうありたいと望んでいる」健康的な状態に戻すことができるかどうかが、大きな課題となる。
つまり、人類の感覚的/官能的な楽しみや、そのための活動全般は、舞台となる地球が汚染されていては望めないのである。
その意味では、マヤ的な視点を持って、環境問題に関して率先して解決していく姿勢をより強化する必要があるかもしれない。それが、人類にとって最優先課題であることほまちがいない。
そのためには、現在の文明形態そのものが変わらなければならない。また、人類のいない文明は無意味である。私たちは、人の住めない地球にする作業を、一刻も早く回避して、地球上の自らのサバイバルのために、現在の文明形態そのものを変えるにはどうしたらよいか――その手法の開発と実践に早急に取り組む必要がある。
マヤの時間の波動が日本を、世界を救う
外宇宙を目指すスペース・シャトルやスペース・ラボなどの宇宙計画。地球を捨てて地球と環境が似ているとされる火星の基地建設とそこへの移住計画。また、もうすでにできているとされる月の基地。一時、話題を呼んだ第三の選択……。
これらの計画や選択の無意味さに、そろそろ気づくときがきたようだ。
火星が人類の郷愁を誘うものであることはわかる。しかし、地球をゴミの山にして、地球外に飛び出すことが唯一の救いだと勘違いしている人もいる。そう思うことは、地球に生まれ育ち、地球の恩恵を被ってきた私たちの存在そのものを否定することにつながるのではないだろうか。私たちは地球の一部であり、いまだ地球と切り離されてはいないのだ。
これらはアメリカ式の開拓精神の勘違いかもしれない。それは、〈男性的な太陽〉=父権主義という、ごく一部の歴史と神話の誤解から生じたものだ。
「子は親となってはじめて、自分の親のありがたみを知る」とは、よく言われることだ。人は時間的な未来へと成長の一歩を歩むことで、はじめて過去に意識を振り向け、自分の起源(親)に対する自然な感謝の気持ちも芽生える。
人類(子)と地球(親)の関係もこれに似ているのかもしれない。人類はいまだ未熟な段階にいるのだ。人は、地球という生命体の意識(惑星意識)を獲得してはじめて、地球が私たちにこれまで何をしてきてくれたのかを実感として知るに違いない。
いまの瞬間を充実して過ごし、未来に希望を抱いている人も、みずからの心身が両親から引き継がれたものであることをやがて知るに至る。
より遠い過去、あるいは民族や人類全体に対しても同様だろう。私たちが今生きていることを過去に遡って考えてみると、両親、そして両親の両親という具合に、どんどん先祖、祖先へと戻っていき、やがて人類の創世記へと至る。そのプロセスにおいて、過去の人々がその時々に何を思い、何に夢を託し、どんな生き方をしてきたかということが、結果的にであれ、遺伝的にであれ、現在の自分につながり、集約されている。またそうでなければ、人間は真の意味で現在を生きることができない。
人間のようにある程度進化した生命は、その都度、個体の死というプロセスを通り抜けてきた一種の生命――時間の連続体である。
たとえば、地球という巨大な生命連続体の、ひとつの出先機関、感覚器官として私たち人間が生きているとしたら、人間は自らの起源としての地球を受け入れることで、過去に回帰する。その時点ではじめて未来にも大きな一歩を踏み出すことができるのではないだろうか。
マヤ人はおそらく、この地球で、時間を修復し、時間を流通させ、人類の未来と過去をより適切な形で位置づけたのかもしれない。マヤの時間の波に乗ることで、私たちはより遠い過去を思い出し、それに応じた未来を思い描くことができる。
マヤの時間を取り込むことで、日本人の血が甦り、未来に息づくことを願っている。
★なわ・ふみひとのコメント★
著者はこの本のあとがきで「マヤ人は未来にいて、日本人を含めて世界中の多くの人が彼らの世界に近づくことを微笑みながら待っている」と述べ、「未来のマヤ人に近づく最大の鍵は、私たちが自分に与えられた時間をどのように使うかにかかっている」と結論づけています。この考え方を、私はなぜか素直に受け入れることができます。
人がこの終末期において、マヤ人が生きた時間の波に乗れたとき、つまり地球という有機体の一部としてこの地球と調和した生き方をするときに、地球とともに新しい時間軸の中に生まれ変わるということです。それが「アセンション(次元上昇)」ということなのでしょう。つまり、自分は地球の分身なのだという自覚のもとに、自分を大切に思うのと同じ程度に、あるいはそれ以上に地球のことを大切に思い、地球と調和した生き方をすることによって、地球とともに新しい世界へと、マヤ人が既に住んでいる世界へと次元上昇していくのだ、ということを述べているのです。
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