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日本の外交官が「奇襲攻撃」にしてしまった
いまだに真珠湾攻撃は日本にとってマイナスの要素になっているわけだが、これが最初から奇襲攻撃をするつもりで行なわれたのであれば、まだ諦めもつく。小佼(ずる)い日本人という悪評も甘受しよう。しかし、現実には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかった。政府も連合艦隊も、ちゃんと開戦の通告をやってから真珠湾に最初の一発を落とそうと思っていたのである。
ところが、これは予定どおりに行なわれなかった。それは、すべてワシントンの日本大使館員の怠慢に由来する(以下の記述は徳岡孝夫「誰が一二月八日を国辱の日にしたか」〈『文藝春秋』昭和61年1月号〉によるところが多い。なお、この事実は私自身も、当時のことを知る外交官に聞いて確認した)。
真珠湾攻撃に当たって、海軍軍令部総長の永野修身は宮中に参内し、昭和天皇に「戦争はすべて堂々とやって、どこからも非難を受けぬように注意いたします」と奏上した。また、連合艦隊をハワイ沖に送り出すに当たって、山本五十六長官は「くれぐれも偏し討ちにならぬよう」と念を押したという。
このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。
「たった30分前では奇襲と同じではないか」という議論は成り立たない。というのも、この当時は、すでに開戦前夜のような状況が続いていた。すでに対日石油禁輸は実行されていたし、アメリカにある日本資産の凍結が行なわれていた。また、アメリカ側の事実上の最後通牒とも言うべき「ハル・ノート」が日本に渡されていたからである。
このような状況であるから、アメリカ側も「いつ日本は宣戦布告を出してくるのか」と待っていたのである。その後の研究では、外務省の暗号は解読されていた上に、機動部隊の動きも知られていたという。だから、日本が開戦の30分前に断交通告を出してきても、彼らは驚かなかったはずである。もちろん、完全に合法的である。
ところが、この予定は大幅に遅れ、実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである。
ルーズペルトは、日本側の失態を最大限に利用した。アメリカ国民のみならず、世界に向けて「日本は奇襲攻撃をしてから、のうのうと断交通知を持ってきた。これほど卑劣で狡猾で悪辣なギャングは見たことがない」ということを印象づけたのだ。
このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。
開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。
何度も言うが、当時はすでに開戦前夜のごとき状況である。日米交渉の当事者であるワシントンの外交官たちは、そのことを十分知っていたはずである。
ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。
さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。同じ日本人として痛憤に耐えない。
しかも、彼らのミスはそれだけに留まらない。
あわてて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。しかも、この文書を現地時間の午後1時にアメリカに手渡せと書いてある。
大使館員が震え上がったのは言うまでもない。ところが、その緊張のせいか、あるいは前夜、当直も置かずに送別会をやったという罪の意識からか、電文をタイプで清書しようと思っても間違いの連続で、いっこうに捗(はかど)らない。そこで彼らがやったのは最悪の判断であった。ハル長官に電話して、「午後1時の約束を、もう1時間延ばしていただけないか」と頼んだのだ。
いったい、彼らは外交官でありながら、国交断絶の通知を何だと思っているのであろう。外務省は、「現地時間の午後1時に渡せ」と指示してきているのだ。それを独断で1時間も遅らせるとは、どういうつもりであろうか。
要するに彼らはエリートかもしれないが、機転が利かないのだ。「外交文書はタイプで清書しなければならない」という国際法など、どこにもない。タイプが間に合わなければ、手書きのまま持っていって、とにかく指定された午後1時に「これは断交の通知です」と言って渡すべきだったのだ。きれいな書面が必要なら、あとで持ってきますと、なぜ言えなかったのか。あるいは断交だけを口頭で伝え、あとで文章を渡してもよかったのだ。
現に、コーデル・ハルは戦後出版した回想録(The Memories of Cordell Hull, 1948)の中で、次のように書いているのだ。
「日本政府が午後1時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前(本当は数十分前=渡部註)に通告を私に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間どってまごまごしていた。だから野村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しか出来上がっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正1時に私に会いに来るべきだった」(訳文は『回想録』朝日新聞社〈昭和24年〉を用いた)
いやしくもワシントン大使館にいるような外交官といえば、昔も今も外務省の中では最もエリートのはずである。そのような人たちにして、この体たらくとは。
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