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 人類文明の秘宝『日本』
馬野周二・著  徳間書店
 
 
 言語の「もと」はただ一つである

  人間は言語を、一体どの進化の時代に作り出したのだろうか。われわれ新人は、わずか三万五千年前に出現している。とすれば、その時代には現代の各言語の根本はもうできていたはずである。黄・白・黒色人種いずれも同じホモサピエンス・サピエンスで、当然その時に発生した祖先から分かれたわけである。そうすると、現在使われているあらゆる言語の「もと」はただ一つだ、と考える外はない。彼らが世界の各地に散っていく途中で、各人種、各民族に特有の言語ができてきたと思う外はない。
  事実、比較言語学というのがあって、インド・アリアン語族については、その原語から分かれて、現在のインドからイラン、ギリシア、ローマ、近代西欧語に何年くらい前に枝分かれしたかが、十分に調べられている。ところが東洋の諸言語については、インド・アリアン語族の歴史よりずっと複雑で、今のところ十分な分析はできていない。とくに日本語については、この起源は五里霧中といってよい。だから各人各様の珍説さらには奇説が現われる。
  だが私は日本語は日本で作られたと考えている。もちろんホモサピエンス・サピエンス原語から出たのだが、きわめて早期に日本に渡ってきて、列島内に固定されたものと見てよいだろう。その証拠はいろいろとある。したがって、日本語はどの言語の範囲にも入らない。他の言語は多民族との摩擦の中で、いわばスレてしまっているのだから。
  このような言語を数十世紀も保持してきた日本人が、他の民族とまったく異なった心情を持つことは当然であり、脳の言語部の物理構造が原初のまま今日まで変化しないで続いてきた。世上、日本人の起源や国家の由来について荒唐無稽な言説が多いが、列島全体が均一な言語で覆われ、近似した言語が近辺にさえ一つもないということは、日本人とその国家の起源が、太古から正しく列島内に局限されてきたことの、破ることのできない証である。このようにして、言語の構造が変わるほどの大量の異種族の流入は考えることはできないものとなる。
  私はいろいろ世界を見て歩き、アメリカ人、ヨーロッパ人と一緒に仕事をしてきたのだが、日本人は、心中深いところで、まったく別種であることを切実に感ぜざるをえなかった。このことは、とりも直さず、日本語が他の言語と大きくちがっているということからくる。(中略)
  ユダヤ、キリスト、イスラム教では、唯一真神としての人(神)格が存在し、人間はこの神の意志の下で生きる。そこで彼ら教徒は、いかなる行動をとっても、それは「神」に見られ、その意志によって動かされていることになる。よくいわれる彼らの契約の観念においても、彼ら相互間の約束は、実は当事者が暗黙、無意識のうちにあってもそれぞれ神と契約しているという、精神的プロセスなのである。

 
日本人は「神」でなく「始元」を相手にしている

  ところが日本人の間では、契約は当事者の間だけの約束で、「神」などが入ってはいない。ではわれわれは本当に当事者だけで事を済ませているのだろうか。それなら、相手が死んでしまえば、契約はなくなり勝手なことができるはずである。かくして監視者「神」のいない日本社会は、没義道(もぎどう)な無残なものとなっているはずだ。西洋人はよく日本人に、あなたの信仰はと聞く。その問の裏は、信仰のない人間は何をするか分からぬという不信感があるのだ。神のいなくなった西洋社会は恐るべきものとなろう。
  しかし世界歴史上大国家としては、おそらく日本ほど犯罪の少ない穏やかな社会はなかっただろう。これはなぜなのか。日本には特定の神格は存在しない。外から入ってきても変質してしまう。何となれば、日本では「一神」は居ず、「万神」は万象に遍在しているからだ。
  われわれは主語のない言葉を普通に使う。西洋カブレの人達は、それだから日本語は曖昧で駄目だと託宣する。だが、それで十二分に意味は通じる。主語を入れると、かえってブチ壊しになるのだ。必要のある場合には主語を入れればよい。日本語はいくらでも厳密な表現ができるのである。漢文よりも日本文の方がずっと精密な表現ができる。法律などは極めて厳格な用語で書かれている。
  「有難うございます」「すみません」「もったいない」などという言葉は、西洋流に穿鑿(せんさく)すれば、訳がわからなくなる。一体誰が誰に有難いのか、すまないのか、何に対してもったいないのか。それは宇宙に遍満している「始元」に対していっているのだ。西洋人が「神に監視されている」とすると、日本人は「神に包まれている」とでもいえようか。

 
日本人的精神を持っていた古代ギリシア人

  実はこのような現代の日本人の保ち続けている心理は、古代ギリシア人もある程度持っていた。彼らは「すべて神気に満つ」という日本人的精神を持っていた。われわれが早朝の人気のない神社にお参りした時の、あの感じと同じであろう。古代ギリシアと日本の親近性に注意した人はこれまでもいる。だがその理由を説明した人はいない。私の見るところ、古代ギリシア人は、なお人類文明の始源に近く、したがって「始元」が万物に遍満していることを直観できたのだろう。日本人と同じく彼らも多神教であった。
  日本語は非常に母音が多い。私はこのことが、日本人の性格の原因であり結果だと思っている。ホモサピエンス・サピエンス原語は、日本語と同じように母音が多かったのだ。そして太古の人達はみな、虫の音が音楽に聞こえていたのだ。だからこそ万物に神が宿っていた。彼らが民族移動して他種族と闘争し、農業社会で相克を重ねるにつれて、言語から母音が落ちていき、人の心が乾燥し、人間不信となり、「人格神」を作り出して彼と契約しなければ、社会秩序が保てなくなった。
  西洋では神を二人称で呼ぶ。神もまた人間を二人称で呼ぶ。“お前”であり“あなた”である。だが日本人で神、「始原」を人称代名詞で呼ぶ者はいない。およそ、そんな発想はでようがないのだ。おそらく古代ギリシア人も同様であったろう。

★なわ・ふみひとのコメント★
 
この本で、著者は「始元」と「始原」を使い分けしています。「始原」は文字通り「源」という意味で、日本語が世界中で最も源流に近い言語であることを述べています。「始元」は、私が「スーパーパワー」とか「宇宙の大法則」などと表現しているもので、一般的にも「大いなるもの」という言葉が使われています。「何事のおはしますかは知らねども‥‥」とも表現される存在で、一神教の「神(God)」とは異なる概念です。著者は、日本語の特殊性(優れているところ)の源流には言語の特質があると見ていますが、私も同感です。虫の音を聞き分けられるような繊細な日本人の感性を育んできたのは、日本語の持つ多様性と懐の深さであると思っています。私たちは、この優れた言語をこれ以上乱すことなく、大切に守っていかなくてはなりません。
 
 
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